生まれた土地は近江とも紀伊ともいわれ、家族のこともよく分かっていない(諸説あり)。
このころ京都の相国寺に入り、禅僧として学んだとされる。
このころ30歳ごろから連歌を本格的に学び始めた。連歌は何人かで和歌の上の句と下の句を交互に詠みつないでいく文芸で、宗砌や心敬といった名人に学んだ。
関東に下り、武将で歌人の東常縁から『古今和歌集』の秘密の解釈を受け継いだ(古今伝授)。和歌の正しい伝統を受け継ぐ者として認められた。
応仁の乱で荒れた京都に種玉庵をかまえる一方、越後の上杉氏や周防の大内氏など各地の大名にまねかれて旅を続けた。連歌は武士たちの間でも大いに好まれた。
弟子の肖柏・宗長とともに、後鳥羽上皇をしのんで「水無瀬三吟百韻」を詠んだ。連歌の手本とされる名作である。同じ年、北野天満宮の連歌会所の長となり、連歌界の第一人者となった。
すぐれた連歌を集めた『新撰菟玖波集』を、ほかの連歌師とともにまとめた。朝廷から準勅撰の扱いを受けた。
弟子の宗長らと越後から駿河へ向かう旅の途中、箱根の湯本で亡くなった。旅に生き、旅に死んだその最期は、宗長の『宗祇終焉記』に記されている。のちに松尾芭蕉も宗祇をしたった。
日親上杉憲実蓮如雪舟朝倉孝景(敏景)細川勝元太田道灌足利義政
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。