日本史人生シミュレーター

三条西実隆

和歌と古典を守り伝えた公家
時代:室町時代 / 1455年〜1537年(82歳ほど)
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歩んだ道

1455年

公家の家に生まれる

京都の武者小路の屋敷で、内大臣の三条西公保の次男として生まれた。はじめの名は公世。三条西家は藤原氏の流れをくむ公家で、和歌や書などの教養を大切にする家だった。母は甘露寺家の出身で、のちに母方の親類が大きな支えとなった。

1458年

家のあとつぎとなる

兄の実連が亡くなったため、家のあとつぎとして扱われ、名を公延と改めた。わずか三歳で朝廷の位をさずかり、その二日後には侍従にも任じられた。まだ幼い子どもだったが、公家の家を守る重い役目を背負うことになった。

1460年

父を亡くし叔父に育てられる

父の公保が亡くなり、幼くして家を継いだ。母の弟にあたる甘露寺親長が後見役となって、家のことや学問の手ほどきをした。親長は朝廷のしきたりにくわしい学識の深い公家で、実隆はその姿から多くを学んだと考えられている。

1467年

応仁の乱で鞍馬へのがれる

京都で応仁の乱が起こり、町は戦火に包まれた。実隆は北の山にある鞍馬寺へのがれ、三条西家の屋敷も焼けてしまった。多くの公家が地方へ移り、古い書物や記録も失われていった。この体験が、古典を守り伝えようとする思いにつながったともいわれる。

1469年

元服して実隆と名のる

おとなになる儀式の元服を行い、右近衛権少将に進んで、名を実隆と改めた。乱が続く中でも、朝廷の儀式や和歌の会に加わり、公家としての務めを果たした。字の美しさでも知られ、のちには多くの人から書物の書き写しや題字を頼まれるようになった。

1474年

日記『実隆公記』を書き始める

このころから、漢文で日記『実隆公記』をつけ始め、六十年あまり書き続けた。朝廷の行事、和歌や連歌の会、訪ねてきた人や暮らしのお金のことまでくわしく記されている。戦国時代はじめの京都のようすを知る、とても大切な歴史の資料となっている。

1487年

宗祇から古今伝授を受ける

このころ、連歌師の宗祇から『古今和歌集』の解釈の秘伝である古今伝授を受けた。宗祇とは身分をこえて親しく交わり、古い和歌の書の鑑定を頼まれることもあった。一条兼良らとともに、乱で失われかけた和歌や古典の文化を守る中心人物となった。

1488年

次男を家のあとつぎに選ぶ

長男ではなく、生まれて間もない次男の公条をあとつぎに決めた。日記には、才能がなければ無理に家を継がせず、子は皆出家させるつもりだったが、考え直したことが書かれている。三条西家では次男が継ぐのが良い前例だと考えたためで、公条はのちに学者として名を残した。

1506年

内大臣となる

朝廷の高い位である内大臣に任じられたが、わずか二か月で職を退いた。そのお祝いの宴も開かなかった。戦乱で朝廷も公家も貧しく、実隆は将軍足利義澄や各地の大名との交流、書の仕事などで暮らしを支えた。周防の大内氏や駿河の今川氏とも親しかった。

1516年

出家する

仏門に入り、尭空と名のった。出家してからも、和歌や『源氏物語』の研究、書物の書き写しを続けた。『源氏物語』の登場人物の関係をまとめた系図をつくり、子の公条が注釈書を書く土台を整えた。歌集『雪玉集』などにも多くの歌が残されている。

1528年

若き武野紹鴎に教える

堺の商人の家に育った若い武野紹鴎が訪ねてくるようになり、和歌や古典を教えた。藤原定家の歌論『詠歌大概』の序を学んだ紹鴎は、その心を茶の湯に生かしたといわれる。実隆が伝えた公家の美意識は、こうして町の人々の文化にも広がっていった。

1537年

最期

京都で亡くなった。三代の天皇に仕え、戦乱の時代に和歌と古典の伝統を守り続けた生涯だった。『実隆公記』と古今伝授は子の公条、孫の実枝へ受け継がれ、のちに細川幽斎を経て江戸時代へと伝えられた。

この時代に起きたこと

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