何をした人?
江戸幕府の8代将軍です。紀州藩主から将軍となり、幕府の財政を立て直すため享保の改革を行いました。倹約をすすめ、大名に米を納めさせる上げ米、新田の開発、目安箱の設置、公事方御定書の制定などを行い、漢訳洋書の輸入をゆるめて実学を奨励しました。「米将軍」とも呼ばれます。
| 名前 | 徳川吉宗 |
|---|---|
| 生没年 | 1684年(貞享元年) – 1751年(寛延4年) |
| 時代 | 江戸時代 |
| 出身地 | 紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市) |
| 別名 | 徳川頼方(はじめの名)、米将軍 |
| 主な業績 |
|
紀州藩(和歌山県)の藩主・徳川光貞の四男として生まれた。
父や兄たちが次々と亡くなり、思いがけず紀州藩主となった。倹約を進め、苦しかった藩の財政を立て直した。
7代将軍家継が幼くして亡くなり、将軍家の血筋が絶えたため、8代将軍にむかえられた。
幕府の財政を立て直すため、享保の改革を始めた。お金の貸し借りの争いを当事者どうしで解決させる相対済し令を出した。
キリスト教に関係のない洋書の輸入をゆるした。これが蘭学がさかんになるきっかけとなった。
江戸城の門の前に目安箱を置き、人々の意見を直接聞いた。その意見から、貧しい病人のための小石川養生所がつくられた。
大名に石高1万石につき米100石を幕府に納めさせ、そのかわりに参勤交代で江戸にいる期間を半分にした。新田開発も進めた。
役職につく人の家の石高が足りないとき、在職中だけ不足分を支給する足高の制を始めた。家柄より能力のある人を役に用いやすくなった。
西日本でいなごの害による大飢饉が起きた。吉宗は青木昆陽にさつまいもの栽培を研究させ、ききんに備えた。
裁判の基準となる法律「公事方御定書」をまとめさせ、公平な裁判をめざした。
将軍職を子の家重にゆずったが、大御所としてその後も政治を見守った。米の値段に心をくだいたことから「米将軍」ともよばれた。
江戸城で亡くなった。江戸幕府中興の名君とされる。
A. 江戸幕府の8代将軍です。紀州藩主から将軍となり、幕府の財政を立て直すため享保の改革を行いました。倹約をすすめ、大名に米を納めさせる上げ米、新田の開発、目安箱の設置、公事方御定書の制定などを行い、漢訳洋書の輸入をゆるめて実学を奨励しました。「米将軍」とも呼ばれます。
A. 江戸時代の人物です。1684年(貞享元年)に生まれ、1751年(寛延4年)に亡くなりました。
A. 徳川吉宗は紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市)の生まれです。
A. 徳川吉宗が1716年ごろから行った幕府の政治改革です。倹約、上げ米、新田開発、年貢の取り方の見直しなどで財政を立て直し、目安箱で庶民の意見を集め、小石川養生所も作られました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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