3代将軍徳川家光の孫として、甲府藩主徳川綱重の長男に生まれた。しかし父が正式な妻を迎える直前に生まれた子であったため、誕生は伏せられ、家臣の新見正信の家で新見左近と名のって育てられた。のちに父の跡継ぎとして呼び戻され、綱豊と名のった。
父の綱重が亡くなり、甲府藩主の地位を継いだ。祖母の順性院に見守られて育った。育ての親である新見正信を深く信頼し、新見をねたんだ家臣のうその訴えが明らかになった時も、新見をかばい続けたという。思いやりの深い人柄は、後年の政治にも表れることになる。
4代将軍徳川家綱が重い病になり、男子がいなかったため、綱豊は叔父の徳川綱吉とともに次の将軍の有力な候補となった。しかし老中の堀田正俊が、家光との血のつながりがより近い綱吉を強く推したため、将軍の座は綱吉のものとなった。綱豊は甲府藩主にとどまった。
学者の木下順庵の推薦で、新井白石を学問の師として招いた。綱豊は白石から儒学のほか、徳川家康から家光までの歴代将軍の事績を熱心に学んだという。周囲から「鬼」とも呼ばれた厳しい白石を最後まで信頼し、二人の関係は「一体分身」とまでいわれた。
白石に命じて、関ヶ原の戦いのころから約八十年間の諸大名の家系と略歴を、わずか十か月でまとめさせた。これが『藩翰譜』で、綱豊は常に手元に置いて読んだという。大名たちの歴史を知ることは、のちに天下を治めるうえで大きな助けになった。
綱吉にも跡を継ぐ男子がいなかったため、家光の孫であることが重んじられ、綱豊が正式に将軍の跡継ぎに決まった。綱吉の養子となって家宣と名を改め、江戸城の西の丸に入った。このとき大名たちが持ってきた賄賂のような祝いの品を、一切受け取らなかったと伝わる。
綱吉が亡くなると6代将軍となった。綱吉は生類憐みの令を守るよう言い残していたが、家宣は「天下万民のため」として、その多くを順に廃止したと伝わる。また側用人に間部詮房を、学者として新井白石を用い、学問と礼儀を重んじる政治を進めた。
白石の意見を取り入れ、天皇家の血筋が絶えないよう新しい宮家として閑院宮家をつくることを進めた。また武家諸法度を改め、武士の心得をわかりやすく示した。家宣の時代と次の家継の時代の政治は、合わせて正徳の治と呼ばれている。
将軍の代替わりを祝う朝鮮通信使が来日した。白石の意見により、もてなしを簡素にして費用を減らし、将軍の呼び方も改めた。この対応をめぐって白石は苦しい立場に立たされたが、家宣は白石を助けたという。対等な外交の形を整えようとする試みであった。
当時はやっていた流行り病にかかり、将軍になって三年余りで亡くなった。死の床では白石の意見を聞き、まだ幼い四男の家継を跡継ぎに決めた。そば近く仕えた者が涙ぐむと「人が死ぬのは当たり前ではないか」とたしなめたという。思いやりの深い将軍として記録に残っている。
柳沢吉保荻原重秀大石内蔵助(良雄)市川團十郎(初代)荻生徂徠雨森芳洲大岡忠相徳川吉宗
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。