江戸で、館林藩主だった徳川綱吉に仕える医者の子として生まれた。
父が罰を受けたため、一家で上総(千葉県)に移った。十数年間、本を頼りにひとりで学問にはげんだ。
江戸にもどり、芝で塾を開いて儒学を教えた。
将軍綱吉の側近・柳沢吉保に仕え、学問で認められた。
赤穂浪士の処分について、法を守るために切腹とすべきだと意見したと伝わる。
吉保が引退すると、日本橋茅場町に蘐園塾を開いた。古い中国の言葉から聖人の教えを直接読みとる「古文辞学」を唱え、多くの弟子が集まった。
このころ、八代将軍・徳川吉宗の相談にこたえ、政治の改革案をまとめた『政談』を書いた。
江戸で亡くなった。
荻原重秀大石内蔵助(良雄)市川團十郎(初代)徳川家宣雨森芳洲大岡忠相徳川吉宗石田梅岩
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。