近江の雨森村(今の滋賀県長浜市)にゆかりのある医者の家に生まれたとされる。生まれた場所には京都とする説もある。少年のころは父のあとを継ぐため医学を学んだが、のちに儒学の道へ進むことになる。
このころ江戸に出て、儒学者木下順庵の門に入った。同じ門下には新井白石や室鳩巣らがおり、のちに「木門の五先生」などと並び称された。すぐれた学友と競い合いながら、芳洲は学問の力を磨いた。
師の順庵の推薦で、朝鮮との外交と貿易を担う対馬藩に仕えることになった。対馬藩は江戸幕府と朝鮮王朝の間をとりもつ役目をもち、学問のある人材を必要としていた。ここから芳洲の生涯の仕事が始まる。
このころ長崎に出て、中国語を学んだ。書物を読むだけでなく、相手の言葉で直接話せることが外交に欠かせないと考えたためだった。のちには中国語と朝鮮語の両方を自在に使いこなしたと伝わる。
対馬に渡り、朝鮮との外交を担当する朝鮮方の補佐役に任じられた。朝鮮からの国書や外交文書の作成、儀礼の調整などに関わった。互いの習慣や考え方の違いを知ることの大切さを、実務の中で学んでいった。
朝鮮の釜山にあった日本人の居留地倭館に滞在し、朝鮮語を本格的に学んだ。のちに朝鮮語の入門書『交隣須知』の作成に関わったともいわれる。相手の言葉を学ぶ姿勢は、当時としては珍しいものだった。
朝鮮通信使の江戸への旅に付きそった。このとき、同門の新井白石が将軍の呼び名を「日本国王」に改めるなどの礼式の変更を進め、芳洲はこれに反対して激しく論じ合った。学友どうしの考えの違いが表に出た出来事だった。
8代将軍吉宗の就任を祝う朝鮮通信使にも付きそった。このとき使節の一員だった申維翰は旅の記録『海游録』に芳洲のことを書き残している。言葉と礼を尽くした芳洲の働きは、朝鮮側にも強い印象を残した。
対馬に朝鮮語の通訳を育てる学校をつくることを進め、若者たちに言葉を教えた。通訳が言葉だけでなく、相手の国の歴史や習わしも知っていなければならないと考え、人材の育成に力を注いだ。
朝鮮との外交の心得をまとめた『交隣提醒』を著した。互いにあざむかず、争わず、真心をもって交わる「誠信の交わり」が大切だと説いた。この考えは、今も日韓の交流を語るときにしばしば取り上げられる。
晩年は対馬で学問と和歌に親しみ、高齢になってから和歌を一万首詠もうと志したと伝わる。対馬で亡くなった。言葉と心で隣国と向き合うことを生涯かけて実践した芳洲は、江戸時代の国際人として評価されている。
大石内蔵助(良雄)市川團十郎(初代)徳川家宣荻生徂徠大岡忠相徳川吉宗石田梅岩賀茂真淵
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