日本史人生シミュレーター

赤松円心(則村)

播磨の守護・室町幕府創業の功臣
時代:鎌倉末〜南北朝時代 / 1277年〜1350年(73歳ほど)
この人の一生をたどる(自動再生)

歩んだ道

1277年

播磨の武士の家に生まれる

播磨国佐用荘を本拠とする赤松氏の家に生まれた。村上源氏の流れをくむと伝わる一族だが、当時はまだ播磨の一地方武士にすぎなかった。名は則村で、のちに出家して円心と号し、こちらの名で広く知られるようになる。

1300年

雪村友梅との縁

若いころの記録は少ないが、のちに中国の元に渡って修行する禅僧の雪村友梅と若き日に出会ったという話が伝わる。円心は生涯を通じて禅宗を深く信仰しており、この縁はのちに播磨で寺を開くことにもつながったとされる(諸説あり)。

1332年

幕府方として戦う

元弘の乱のさなか、六波羅探題の命で出陣し、摂津に進出した楠木正成の軍を一度は退けたと伝わる。この働きから、円心ははじめ幕府方の武士として京都の六波羅に仕えていたと考えられている。弟の円光の妻は正成の姉であったともいう。

1333年

護良親王の令旨で挙兵

後醍醐天皇の皇子である護良親王の令旨を受け、播磨の苔縄城で挙兵して幕府に背いた。『太平記』は、家を興して名をあげたいと願っていた円心が大いに喜んだと伝える。摂津の摩耶山城に入り、攻め寄せた六波羅の軍を退けた。

1333年

六波羅を攻め落とす

三男の則祐の進言で瀬川の敵陣に攻めかかって勝ち、勢いに乗って京都へ攻め込んだ。一度は六波羅の大軍に押し返されたが、八幡・山崎に陣を構えて粘り強く戦い続け、やがて足利高氏(尊氏)らと力を合わせて六波羅探題を攻め落とした。

1334年

新政権での冷遇

建武の新政で播磨守護に任じられたものの、まもなくその地位を取り上げられた。後ろ盾であった護良親王が失脚したことも重なり、大きな手柄に見合わない扱いに円心は強い不満を抱いた。都を離れて本拠の佐用荘へ引き上げたと伝わる。

1335年

足利尊氏に味方する

中先代の乱を鎮めるため足利尊氏が関東へ下ると、円心は子の範資と貞範を従軍させた。やがて尊氏が後醍醐天皇の政権と対立して京都に攻め上ると、赤松氏ははっきりと尊氏の味方につき、以後は足利方の有力な武将として戦うことになった。

1336年

九州へ落ちるよう勧める

京都の戦いで尊氏が敗れたとき、円心は九州へ逃れて力を蓄え、再起するよう勧めたと『太平記』は伝える。尊氏はこれに従って西へ下り、円心は改めて播磨守護に任じられて、国元で追ってくる朝廷方の大軍を待ち受ける役目を引き受けた。

1336年

白旗城の籠城

新田義貞が大軍で播磨に攻め寄せると、円心は白旗城に立てこもった。降伏をほのめかして時間をかせぎ、守りを固めて五十日あまり敵を足止めしたと『太平記』は伝える。その間に尊氏は九州で力を取り戻し、湊川の戦いで勝利をおさめた。

1338年

二か国の守護家へ

前年に長男の範資が摂津守護に任じられ、赤松氏は播磨と摂津を治める有力な家となった。この年から数年にわたり、播磨に残った朝廷方の金谷経氏が兵を挙げると、円心は範資・則祐らとともにこれを鎮め、領国の支配を固めていった。

1345年

禅寺を開く

禅宗を深く信仰した円心は、このころ播磨の赤松に法雲寺を建て、元から帰国していた雪村友梅を開山として招いたと伝わる。戦いに明け暮れた武将でありながら、禅僧と交わって心の支えを求めた姿は、当時の武士の信仰のあり方をよく示している。

1350年

京都での最期

観応の擾乱では尊氏方につき、足利直冬を討つ軍の準備を進めていたさなか、京都七条の屋敷で急に亡くなった。跡は長男の範資が継ぎ、のちに三男の則祐が家を受け継いで、赤松氏は室町幕府を支える有力な守護大名として続いていった。

この時代に起きたこと

この人の一生をたどる(自動再生)

関係する人物

後醍醐天皇楠木正成新田義貞足利尊氏

同じ時代の人物(室町)

夢窓疎石後醍醐天皇北畠親房楠木正成佐々木道誉高師直新田義貞足利尊氏

室町の人物一覧 ・ 時代別の人物一覧

教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。

人物一覧へ