後宇多天皇の皇子として生まれた。名は尊治。学問を好み、中国の宋の学問(朱子学)にも関心を寄せた。
30歳で即位した。当時は二つの皇室の系統が交代で天皇になるしくみで、幕府がそれを調整していた。後醍醐天皇はこのしくみと幕府そのものに不満を強めていった。
父の院政をやめさせ、天皇自らが政治を行うようにした。記録所を再びおき、自ら裁判に関わった。
幕府を倒す計画がもれ、近臣の日野資朝らが処罰された(正中の変)。天皇自身は罪を問われなかったが、あきらめなかった。
二度目の計画も発覚し、京都を出て笠置山にこもった。楠木正成らが味方として兵を挙げたが、笠置は落ち、天皇は捕らえられた。
幕府によって隠岐(島根県)へ流された。それでも各地で楠木正成や皇子の護良親王らが幕府と戦い続けた。
隠岐を脱出し、伯耆(鳥取県)の船上山で名和長年に迎えられた。足利高氏(尊氏)が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府はほろびた。天皇は京都に戻った。
元号を建武と改め、天皇中心の政治を始めた。しかし、公家を重んじて武士の恩賞が不公平だったことや、急な改革で世の中は混乱した。京都の二条河原には、新政を皮肉る落書が掲げられた。
北条氏の残党が鎌倉を奪った(中先代の乱)。足利尊氏は許しを得ないまま鎌倉へ向かって乱をしずめ、そのまま新政に背いた。
尊氏が湊川で楠木正成を破り、京都に入った。尊氏は別の天皇(光明天皇)を立てた。後醍醐天皇はひそかに京都を抜け出して吉野(奈良県)に移り、自分こそ正しい天皇だと主張した。二つの朝廷が並ぶ南北朝時代の始まりだった。
頼りにしていた北畠顕家と新田義貞が相次いで戦いで命を落とした。南朝は苦しい立場に追いこまれた。
吉野で病に倒れ、皇子(後村上天皇)に位をゆずって亡くなった。「体は吉野の苔に埋もれても、魂は常に京都の空を望む」と言い残したと『太平記』は伝える。足利尊氏は天皇の霊をなぐさめるため天龍寺を建てた。
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夢窓疎石赤松円心(則村)北畠親房楠木正成佐々木道誉高師直新田義貞足利尊氏
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。