伊勢(三重県)に生まれ、幼いころ家族とともに甲斐(山梨県)に移った。母を早くに亡くした。
甲斐の平塩山の寺に入り、仏教を学び始めた。
奈良の東大寺で正式な僧となった。天台の教えなどを学んだが、学問を積んだ師が苦しみながら亡くなるのを見て、学問だけでは救われないと感じ、禅を志したと伝わる。
鎌倉で、元から来た禅僧・一山一寧の弟子入りを願い、試験を受けて学んだ。しかし満足のいく答えは得られず、さらに修行を重ねた。
下野(栃木県)の高峰顕日のもとで修行し、30歳で悟りを認められた。その後も名声を避けて、美濃や土佐など各地の山に庵を結んで暮らした。
美濃(岐阜県)の虎渓山に庵を開いた。これがのちの永保寺で、自然の地形を生かした庭が残る。
後醍醐天皇にまねかれ、京都の南禅寺の住持となった。その後、鎌倉の北条氏にもまねかれ、瑞泉寺などを開いた。
鎌倉幕府がほろびたあとも、後醍醐天皇に重んじられた。やがて足利尊氏・直義兄弟も夢窓を深くうやまい、敵どうしになった両方から師とあおがれた。
尊氏・直義に、戦いで亡くなった人々をとむらうため、国ごとに安国寺と利生塔を建てるようすすめた。
後醍醐天皇が亡くなると、その霊をなぐさめるための天龍寺を開くことになった。同じ年、西芳寺(苔寺)の庭を整えた。夢窓の庭は、のちの日本庭園に大きな影響を与えた。
天龍寺を建てる費用のため、元へ貿易船を送ることを幕府にすすめた(天龍寺船)。
観応の擾乱で尊氏と直義が争う中、76歳で亡くなった。生前と死後に7人の天皇から国師の称号を贈られ、「七朝帝師」と呼ばれた。多くの弟子が育ち、五山の禅文化の中心となった。
赤松円心(則村)後醍醐天皇北畠親房楠木正成佐々木道誉高師直新田義貞足利尊氏
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。