足利氏に仕える高一族に生まれたとされる。生年ははっきりせず、のちの伝から1299年ごろとおく説もあるが諸説あり。父は師重。幼いころから尊氏の側近くで育ち、実務と軍略を身につけていった。
元弘の乱で足利尊氏に従い、鎌倉幕府打倒に加わった。建武の新政では雑訴決断所などに属し、尊氏の代官として働いた。乱世の中で、主の右腕として急速に存在感を高めていった。
尊氏が中先代の乱ののち建武政権にそむくと、師直は軍を率いて戦い、京都や九州をめぐる戦いで功を立てた。尊氏が将軍となる道を、軍事の実務で支える中心の人物となっていった。
南朝方の名将・北畠顕家の軍と戦い、これを破った。畿内の戦いで幕府方の優位を固め、師直の武名はさらに高まった。太平記には権威を軽んじる新しい武士の姿として描かれ、のちの物語にも影響した。
尊氏が征夷大将軍となると、師直は将軍家の執事となった。恩賞や奉書の実務を握り、武士たちへの命令は多く師直を通して出された。弟の師泰とともに、開創期の幕府を軍事・内政の両面で支えた。
執事として武士たちの恩賞申請を処理し、将軍の意思を奉書で下へ伝えた。軍事と行政をつなぐこの実務は、室町幕府の開創期を支えるうえで欠かせない役割だった。とされる。
河内で楠木正行(正成の子)を四条畷で破り、正行は戦死した。南朝方に大きな打撃を与え、幕府の軍事を担う筆頭として存在感を示した。しかしその勢いは、やがて政務を握る足利直義との対立を深める。
尊氏の弟で政務をつかさどる足利直義と激しく対立した。師直は直義の屋敷を囲み、直義を出家させて政務から退け、自らは執事に復帰して実権を握った。幕府を二分する争いの始まりだった。
直義が京都を脱して南朝と結び、尊氏・師直と戦う観応の擾乱が始まった。かつての味方同士が刃を交え、畿内は大きく乱れた。師直は尊氏とともに直義方と戦ったが、形勢は次第に不利になっていった。
摂津打出浜の戦いで尊氏・師直は敗れ、師直は出家して降伏した。京へ送られる途上、摂津の武庫川付近で直義派の上杉能憲らに襲われ、弟の師泰ら一族とともに命を落とした。享年は不明。
後醍醐天皇北畠親房楠木正成佐々木道誉新田義貞足利尊氏足利直義二条良基
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。