河内(大阪府)の豪族の家に生まれたとされる(生年は諸説あり)。若いころのことはほとんど分かっていない。商業や流通にかかわった新しいタイプの武士だったとする説もある。
後醍醐天皇が笠置山で兵を挙げると、天皇のもとにはせ参じた。『太平記』は、天皇が夢のお告げで正成を知ったと伝える。地元の赤坂城で幕府の大軍を相手に戦ったが、城に火を放って姿を消した。
天皇が隠岐に流されたあとも、ふたたび兵を挙げ、赤坂城を取り戻した。護良親王とともに、幕府への抵抗を続けた。
山の上の千早城にこもり、わずかな兵で幕府の大軍を何か月も防いだ。岩や大木を落とすなど知恵をしぼった戦い方で知られる。その間に各地で反幕府の動きが広がり、鎌倉幕府はほろびた。
建武の新政で河内などの守護や国司に任じられ、記録所や雑訴決断所の役人として政治にも関わった。
尊氏が京都に攻めこんで一度は敗れ、九州へ落ちのびた。正成は、武士の心は尊氏にあると見て、尊氏と和解するよう天皇に進言したと伝わる(『梅松論』)。しかし受け入れられなかった。
大軍で戻ってきた尊氏を迎え撃つよう命じられた。途中の桜井で子の正行に故郷へ帰るよう言い聞かせたと『太平記』は伝える(桜井の別れ)。湊川(神戸市)で尊氏軍と戦い、弟の正季とともに自ら命を絶った。「七たび生まれ変わって国に報いる」と誓い合ったと伝わる。
徳川光圀副島種臣高村光雲後醍醐天皇赤松円心(則村)新田義貞足利尊氏
夢窓疎石赤松円心(則村)後醍醐天皇北畠親房佐々木道誉高師直新田義貞足利尊氏
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。