村上天皇の流れをくむ公家・北畠師重の子として生まれた。家は学問で知られ、親房も若くして高い位に進んだ。
後醍醐天皇に深く信頼され、皇子の世良親王の養育を任された。
大切に育てた世良親王が若くして亡くなり、悲しみのあまり37歳で出家した。それでも政治の世界から離れることはなかった。
建武の新政が始まると、長男の顕家が陸奥守となり、幼い義良親王を奉じて東北へ下った。親房も同行し、東北の武士をまとめる政治を支えた。
後醍醐天皇が吉野に移ると、その中心となって南朝を支えた。
長男の顕家が和泉の石津の戦いで20歳で命を落とした。親房は東国で味方を集めるため船で向かったが、嵐にあって船団はばらばらになり、常陸(茨城県)にたどり着いた。
常陸の小田城で、南朝こそ正しい皇統であることを説く歴史書『神皇正統記』を書いた。「大日本は神国なり」で始まる書で、のちの時代にも大きな影響を与えた。この年、後醍醐天皇が亡くなった。
5年ほど関東で戦い続けたが、拠点の城が次々に落ち、吉野へ戻った。その後は南朝の政治の中心となった。
足利方の高師直に吉野を焼かれ、南朝はさらに山奥の賀名生(奈良県)へ移った。
観応の擾乱で尊氏が南朝に降ったため、一時は南朝の天皇のもとに統一された(正平一統)。翌年、南朝軍は京都に入ったが、まもなく追い返された。
賀名生で61歳で亡くなった。生涯をかけて南朝を支え続けた。
夢窓疎石赤松円心(則村)後醍醐天皇楠木正成佐々木道誉高師直新田義貞足利尊氏
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。