斯波高経の四男として生まれた。斯波氏は足利一門の有力な家で、のちに三管領の一つとなる。幼いころから父の偏愛を受け、早くから幕府の中枢に立つ道を歩むこととなった。
わずか十三歳で幕府の執事(のちの管領)に就いた。父の後見と推薦による大きな抜擢であった。越中の守護も兼ね、幼い身ながら重職を担ったが、実務は父と家臣が支えていた。
高経が細川頼之らと対立して失脚すると、義将も都を追われ越前へ退いた。一時は家の存続も危ぶまれたが、翌々年には許されて復帰した。若いころの挫折は、のちの慎重な政治姿勢につながった。
細川頼之を管領の座から追う康暦の政変で中心となり、自ら管領に再任された。義満を補佐しつつ、斯波・細川・畠山が交代で管領となる三管領の枠組みが固まっていく時期だった。
信濃の守護も兼ね、斯波氏の分国は大きく広がった。守護大名として領国と幕政の両立をはかり、三管領筆頭としての地歩をいっそう固めていった。とされる。と伝えられる。記録に残る重要な一事である。
義満のもとで南北朝の合一が進む時期、管領として幕政を支えた。守護大名の利害を調整し、将軍権力の強化と安定をはかった。派手さより実務と話し合いを重んじる政治家だった。
出家して道将と名乗った。同年、九州探題・今川了俊の解任にも関わり、了俊はのちに『難太平記』で義将らへの不満を記した。幕閣の中心として、義満の大名統制を実務面で支えた。
義満が急死すると、義持を将軍として支え、義満への太上天皇号追贈を辞退させた。勘合貿易の見直しも進め、父の派手な政治から距離を置く義持政権の方向づけに大きな役割を果たした。
外交処理などのため、短期間ながら再び管領に就き、孫の義淳に職を譲った。斯波氏の幕政支配を強めようとする動きだったが、翌年の義将の死でその構想は長くは続かなかった。
応永17年、病のため亡くなった。享年六十一。人々は「当世武門の重人」とその死を悼んだと伝わる。三管領の筆頭として義満・義持の二代を支えた生涯は、室町幕府の安定期を象徴する。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。