猿楽の役者・観阿弥の子として生まれた(生年は諸説あり)。幼い名は鬼夜叉。父のもとで、幼いころから舞台に立った。
京都の今熊野での父の舞台で、11歳の世阿弥は将軍・足利義満の目にとまった(1375年説も)。義満は少年をかわいがり、そばに置いた。公家の二条良基からは和歌や連歌も学んだ。
祇園祭の見物で、義満は世阿弥を自分の席に同席させた。身分の低い芸能者を特別あつかいしたことを、公家の日記は苦々しく記している。
父の観阿弥が旅先の駿河(静岡県)で亡くなった。21歳で観世座の長となり、父の芸を受け継いだ。
父の教えをもとに、能の心得を書いた『風姿花伝』の最初の部分をまとめた。「秘すれば花」など、観客を感動させる「花」とは何かを説いた。
後ろだてだった義満が亡くなった。次の将軍・義持は田楽の増阿弥を好み、世阿弥はより深く静かな美しさ「幽玄」を追い求めて芸をみがいた。『井筒』など多くの名作を書いた。
このころ出家し、観世座の長を長男の元雅にゆずった。その後も芸論を書き続け、1424年には『花鏡』をまとめた。
6代将軍・足利義教は世阿弥のおいの音阿弥をひいきにし、世阿弥父子は御所での演能を禁じられるなど冷遇された。
才能を期待していた長男の元雅が、旅先の伊勢で亡くなった。次男の元能はすでに出家していた。世阿弥は「道はここで絶えた」と深く嘆いた。
理由ははっきりしないが、71歳で佐渡へ流された。
佐渡での日々を小謡の形でつづった『金島書』を書いた。島の景色や神社を、静かな心でうたっている。
その後、許されて都に戻ったともいわれるが、くわしいことは分かっていない。このころ亡くなったと考えられている(諸説あり)。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。