日本史人生シミュレーター

足利義澄

室町幕府の11代将軍
時代:室町時代 / 1481年〜1511年(30歳ほど)

何をした人?
室町時代中期の室町幕府第11代将軍です。明応の政変で将軍となり、細川氏など有力守護との関係のなかで幕政を運営しました。永正の錯乱で京を追われ、近江で亡くなりました。

プロフィール

名前足利義澄
生没年1481年(文明17年) – 1511年(永正8年)
時代室町時代
出身地(諸説あり)
主な業績
  • 明応の政変で将軍となる(1494年)
  • 細川政元らと幕政を運営
  • 永正の錯乱で京を離れる(1508年)
  • 近江で亡くなる(1511年)
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歩んだ道

1481年

堀越公方の家に生まれる

足利義政の異母弟・足利政知の子として生まれた。幼名は清晃。伊豆の堀越公方の家に連なる出自で、将軍家の傍流にあたる。幼いころから僧としての道を歩み、京都の天龍寺などで修行を積んだとされる。

1493年

明応の政変で将軍に擁立される

管領細川政元がクーデターを起こし、将軍足利義材を退けた。これを明応の政変という。政元は清晃を還俗させて義高と名乗らせ、11代将軍に据えた。のちに義澄と改名する。わずか十二歳前後で将軍の座についた。

1494年

細川政元の下で政権が動く

実権は管領の細川政元が握り、若い将軍義澄は政元の意向に沿って政治を進めた。京都の治安は不安定で、各地の守護大名も独自の動きを強めていた。将軍の権威は形だけになりつつあった。

1500年

日野富子の死と朝廷との関係

義政の妻で長く政界に影響力を持った日野富子が亡くなった。義澄は朝廷との儀礼を重ね、将軍としての体裁を整えようとした。しかし細川氏の内紛や地方の戦乱が続き、京都の支配は揺らいでいた。

1502年

義澄と改名し権威の回復を図る

将軍としての名を義澄と定め、儀礼や任官を通じて権威の回復を図った。しかし実権はなお細川政元にあり、義澄自身が独自の政策を打ち出す余地は限られていた。幕府は管領の意向で動く時代が続いていた。

1507年

細川政元が暗殺される

管領細川政元が家臣に殺された。細川家の跡目争いが激しくなり、京都は大きく揺れた。後ろ盾を失った義澄の立場は弱まり、かつて退けた足利義稙を支持する勢力が再び力をつけ始めた。

1508年

近江へ逃れる

細川高国らが足利義稙を将軍に戻そうと兵を動かし、義澄は京都を追われた。近江の六角氏などを頼って落ち延び、将軍の座を失った。幼くして将軍になった彼は、わずか十数年で政権の中心から外れた。

1509年

復帰を目指して動く

近江や美濃などを拠点に、義澄の復帰を目指す動きが続いた。細川澄元など味方する勢力もあり、京都をめぐる争いが再燃した。しかし戦況は一進一退で、安定した政権の再建には至らなかった。

1510年

上洛の試みと挫折

味方の軍とともに再び京都へ入ろうとしたが、細川高国・大内義興ら義稙方の抵抗にあい、思うように進まなかった。将軍家が二つに割れた状態が続き、室町幕府の権威はさらに低下した。

1511年

近江での最期

近江で病のため亡くなった。享年三十。子の足利義晴はのちに12代将軍となり、義澄の系統が将軍家を継ぐことになる。短い将軍在位と亡命の末の死は、戦国期の幕府の弱さを象徴する生涯だった。

この時代に起きたこと

よくある質問

Q. 足利義澄は何をした人ですか?

A. 室町時代中期の室町幕府第11代将軍です。明応の政変で将軍となり、細川氏など有力守護との関係のなかで幕政を運営しました。永正の錯乱で京を追われ、近江で亡くなりました。

Q. 足利義澄はいつの時代の人ですか?

A. 室町時代の人物です。1481年(文明17年)に生まれ、1511年(永正8年)に亡くなりました。

Q. 足利義澄の出身地はどこですか?

A. 足利義澄は(諸説あり)の生まれです。

Q. 足利義澄はどのように将軍になりましたか?

A. 明応の政変で細川政元らにより前将軍足利義材が追われ、義澄が将軍に立てられました。幼少からの経歴には諸説もあります。

参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata

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