島根県の山あいの村で、豪農の山根家に十四人きょうだいの八男として生まれた。いたずら好きの少年で、二つ上の兄とよく遊び、やりすぎると空の酒樽に入れられて、なかなか出してもらえなかったという。母に蔵へ呼ばれて静かに諭された話は、今も地元で語り継がれている。
親戚にあたる岡山の秦家に、跡継ぎの養子として迎えられた。秦家は代々医師の家で一人娘しかおらず、山根家の息子のなかでも特に頭のよい佐八郎が選ばれた。岡山で勉強ができると言われたことも、少年が養子になる決心をした理由の一つだったと考えられている。
はじめは岡山の薬学の学校で学んでいたが、学校の組織が変わったのをきっかけに、医師を育てる第三高等中学校の医学部へ移った。成績はたいへん優秀で、ほかの学生や先生たちからも一目置かれる存在だった。代々医師の家を継ぐ者として、医学の勉強に打ち込んだ。
第三高等中学校の医学部を卒業して医師となり、同じ年に秦家の娘チヨと結婚した。また志願して東京の部隊に一年入り、軍医として必要な経験を積んだ。その後は岡山に戻って県の病院の助手となり、内科や医学の化学を先生たちから学んで、研究者としての力を養った。
先生の荒木寅三郎の推薦を受けて一人で東京へ出て、伝染病の研究所に入り、北里柴三郎に学ぶことになった。北里は破傷風の研究などで世界に名を知られた細菌学者だった。ここで秦は、病気の原因となる細菌を調べる厳しい研究の世界へ、本格的に足を踏み入れた。
日本で初めてペストの患者が出ると、秦は病気の広がりを防ぐ仕事に加わった。ペストは命にかかわるたいへん危険な伝染病だったが、八年にわたって研究を続け、十数本の論文を書き、仲間とペストを防ぐための方法もまとめた。この長年の実績が、のちに世界的な研究へとつながった。
日露戦争が始まると軍医として戦地へ向かい、南満州の各地にあった野戦病院で、伝染病にかかった兵士たちの治療に当たった。翌年には日本に呼び戻され、帰ってくる兵士たちが病気を持ち込まないよう調べる検疫の仕事を受け持った。こうした働きが認められ、ドイツ留学の道が開かれた。
ドイツに留学し、ベルリンのコッホの研究所で免疫の研究をした。その後、エールリヒの研究所で学びたいと願い、紹介の手紙がうまくいかないと自分で手紙を書き、荷物を駅に預けたまま研究所に駆けつけた。エールリヒは、部屋も助手も用意してある、今日から始めようと迎えたという。
エールリヒの研究所で、梅毒に効く薬を探す研究に取り組んだ。数多くの薬を一つずつ動物で丁寧に試し、六〇六番目の薬がすぐれた効き目を持つことを確かめた。何百年も人々を苦しめてきた梅毒に、初めて効く薬が見つかった瞬間であり、エールリヒも秦の正確な実験に深く感謝した。
エールリヒとともに研究の成果を発表し、二人の名で本も出した。薬はサルバルサンと名づけられ、救うという意味のとおり、世界中の多くの患者を救った。同じ年、秦はコッホの最期に立ち会ってから日本へ帰った。のちにノーベル賞の候補にも挙がったが、受賞はかなわなかった。
伝染病の研究所の所属が国の都合で変えられることになると、北里柴三郎とともに研究所を辞め、新しく北里研究所を立ち上げる仲間に加わった。恩師と行動をともにし、新しい研究所で部長として研究と後輩の指導に力を注いだ。師への深い信頼がうかがえる出来事である。
第一次世界大戦でドイツからの薬が届かなくなると、国や研究者、製薬会社と力を合わせて、サルバルサンを日本で作る取り組みを進めた。そして国産化に成功し、別の名前で売り出された。自ら開発に関わった薬を、日本の患者にも届けられるようにしたのである。
慶應義塾の医学部の教授となり、細菌や免疫の学問を教えた。学生を自宅に招いては、自ら育てた菊を見せる会を開き、菊は守るだけでなく時には厳しく手を入れて育てるものだと語ったという。学生を菊になぞらえた、温かくもユーモアのある指導ぶりが伝わっている。
長年の恩師である北里柴三郎が亡くなり、秦は北里研究所の副所長として研究所を支える立場になった。その後、学者として最も名誉ある集まりの一つである帝国学士院の会員にも選ばれた。若いころから師と仰いだ人の志を受け継ぎ、日本の医学研究を引っ張った。
病のため入院し、東京の病院で満六十五歳で亡くなった。医学にすべてを捧げた生涯であり、葬儀は北里研究所によって行われた。今も日本の化学療法の学会には彼の名を冠した賞があり、多くの患者を救った薬を生んだ研究者として、その功績が称えられている。
幸徳秋水樋口一葉島崎藤村田山花袋菱田春草野口英世与謝野晶子滝廉太郎
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。