何をした人?
明治から大正にかけての実業家です。京都の三井家に生まれ、大坂の豪商・加島屋に嫁ぎました。明治維新で傾いた家業を立て直し、炭鉱の経営や加島銀行、大同生命の設立に関わりました。成瀬仁蔵を支えて日本女子大学校の設立に力を尽くし、女性の教育と社会での活躍を応援しました。
| 名前 | 広岡浅子 |
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| 生没年 | 1849年(嘉永2年) – 1919年(大正8年) |
| 時代 | 江戸末〜大正時代 |
| 出身地 | 京都 |
| 主な業績 |
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京都の油小路出水にあった、大商人三井家の一つである小石川三井家の当主・三井高益の娘に生まれた。幼い名は照。裁縫や琴のけいこよりも、漢学の本を読む学問に強くひかれた。しかし「女に学問はいらない」という当時の商家のしきたりから、家の人に読書を禁じられた。
父の三井高益が亡くなり、養子の三井高喜が家を継いで浅子の兄となった。浅子は、高喜の子で年の近い三井高景ときょうだいのように育ち、のちのちまで親しく付き合った。浅子は生まれて間もなく、大坂の豪商の家へ嫁ぐことがすでに決められていた。
大坂で指折りの豪商である両替商・加島屋の広岡家の次男、広岡信五郎と結婚した。嫁いでみると、主人は店の仕事を使用人にまかせきりにしていた。浅子はこれでは家を守れないと感じ、簿記やそろばんなど商売に必要な知識を独学で身につけていった。
明治維新の大きな変化で、加島屋は大名たちに貸していた多くのお金を取り戻せなくなり、店は傾いた。浅子は夫や当主の義弟とともに店の立て直しに走り回った。借金の返済を求めて自ら各地の藩の屋敷を訪ね、粘り強く交渉したと伝わる。
このころから石炭の事業に加わった。不況で石炭の値段が下がって苦しんだが、手元に残った九州の筑豊の潤野炭鉱を立て直そうと、自ら炭鉱に乗りこんだ。身を守るためのピストルを懐に入れ、坑夫たちと生活をともにしたと伝わる。男でもためらう事業に挑む姿は人々を驚かせた。
加島屋を近代的な会社に生まれ変わらせるため、加島銀行を設立した。昔ながらの両替商から、新しい時代の銀行へと商売の形を変えたのである。浅子は経営の中心となって働き、加島屋は大阪の有力な金融の一族として力を取り戻していった。
女子の大学をつくろうとしていた教育者の成瀬仁蔵が浅子を訪ねてきた。初めはすぐには打ち解けなかったが、成瀬から渡された著書『女子教育』を読み、深く共感した。幼いころ学問を禁じられた浅子は、女子にも男子と同じ教育を受けさせるべきだと考えていたのである。
苦労して経営してきた潤野炭鉱は、官営の八幡製鉄所の燃料を確保するため国に買い取られた。浅子はこのころすでに次の仕事に目を向けており、成瀬とともに政界や経済界の有力者を訪ねて、女子の大学への協力を呼びかけて回っていた。
浅子は自ら寄付をしたうえ、実家の三井家に働きかけて東京の目白台の土地を寄付させた。こうして日本で初めての本格的な女子の高等教育の学校の一つである日本女子大学校が開校した。浅子は発起人の一人となり、夫の信五郎も創立委員として支えた。
三つの生命保険会社を一つにまとめて大同生命を誕生させることに加わった。加島屋は銀行と保険を持つ近代的な金融の企業へと成長した。浅子は鈴木よねらと並ぶ明治を代表する女性実業家として知られるようになり、豪快で賢いその人柄から「一代の女傑」とたたえられた。
夫の信五郎が亡くなったのをきっかけに、事業を娘の夫である広岡恵三に譲った。その後は女子教育や女性のための活動に力を注ぎ、自らも学問に励んだ。1909年には胸の腫瘍の手術を受けて回復し、のちに牧師の宮川経輝から洗礼を受けてキリスト教徒となった。
この年から毎年夏、静岡県の御殿場・二の岡の別荘に若い女性たちを集めて、泊まりこみの勉強会を開いた。参加者には、のちに女性の権利のために活動した市川房枝や、翻訳家となる村岡花子もいた。浅子は九転十起生という筆名で文章を書き、女性たちを励まし続けた。
腎臓の病気のため、東京の別邸で亡くなった。「普段言っていることが、皆遺言です」と語り、遺言を残さなかったと伝わる。日本女子大学校で開かれた追悼会では、大隈重信がその功績をたたえた。何度倒れても起き上がる浅子の生き方は、今も多くの人を励ましている。
A. 明治から大正にかけての実業家です。京都の三井家に生まれ、大坂の豪商・加島屋に嫁ぎました。明治維新で傾いた家業を立て直し、炭鉱の経営や加島銀行、大同生命の設立に関わりました。成瀬仁蔵を支えて日本女子大学校の設立に力を尽くし、女性の教育と社会での活躍を応援しました。
A. 江戸末〜大正時代の人物です。1849年(嘉永2年)に生まれ、1919年(大正8年)に亡くなりました。
A. 広岡浅子は京都の生まれです。
A. 女子の大学をつくろうとしていた成瀬仁蔵の考えに共感し、自ら寄付をしたうえ、実家の三井家に東京の目白台の土地を寄付させました。こうして1901年に日本女子大学校が開校し、浅子は女性の高等教育の道を開く大きな支えとなりました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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