江戸の築地で、左官職人の長男として生まれ、浜吉と名付けられた。父が破産していなくなったため、二人の姉は奉公に出され、母は浜吉を連れて漢方医の星泰順と再婚した。こうして星の姓を名乗ることになった。貧しさのなかで育った少年時代だった。
横浜で医者に弟子入りし、そのつてで幕府の英語学校で学び始めた。のちに前島密の塾に入り、その仲立ちで幕府の洋学校である開成所に入って英語の世話役となった。しかし戊辰戦争が始まると職を失い、英字新聞の翻訳で日々の生活費を稼いだ。
各地で英語の教師を務めるうちに陸奥宗光に認められ、陸奥が神奈川県の知事になると、横浜の英語学校の教師に迎えられた。陸奥は星にとって生涯の恩人となる。のちに徳富蘇峰は、虎のような星も陸奥の前では猫のようだったと書いている。
陸奥の引き立てで大蔵省に入り、若くして横浜税関の長に抜擢された。ところがイギリスの女王の呼び方をめぐってイギリス公使と争いになり、職を離れた。まもなく政府からイギリス留学を命じられ、ロンドンへ向けて横浜を船で出発した。
ロンドンの法学院ミドル・テンプルで学び、日本人として早い時期に法廷弁護士の資格を得た。功利主義を説いたベンサムの本を繰り返し読み込んだという。恵まれた家に生まれた同窓の馬場辰猪とは議論の末につかみ合いのけんかになったとも伝わる。
帰国して、司法省に属する代言人、つまりのちの弁護士の第一号となった。最初の大きな仕事である高島炭鉱の事件で後藤象二郎の弁護を務めて一気に名を上げ、財産も築いた。法律の知識と英語の力が、彼を政治の世界へと押し上げていくことになる。
板垣退助らの自由党に入り、党の新聞の経営に関わった。ほかの指導者たちが迷うなかでも、一貫して党を守り立て直そうと力を尽くした。演説が役人を侮辱したとして新潟で捕らえられるなど、政府と対立して牢に入れられることもあった。
中江兆民らとともに、小さな違いを捨ててまとまろうと訴え、大同団結運動を進めた。政府に外交や税の改革を求める建白運動にも加わったが、そのために東京から追い出され、さらに出版の決まりに違反したとして牢に入れられた。
カナダやアメリカ、イギリス、ドイツを回り、日本の民権運動の意義を訴えたが、まったく相手にされなかった。日本が西洋の人々の目に入っていないことを痛感し、国の力を強めるために税を増やし軍備を整えることも必要だと考えを改めて帰国した。
二度目の総選挙で栃木から当選し、衆議院の議長に選ばれた。翌年、取引所をめぐる疑惑に関わったとして議員の資格を奪われたが、議長を辞めるよう求める決議を何度も無視して議場に出続けたことで知られる。強引さと粘り強さを併せ持つ政治家だった。
日清戦争の後、朝鮮政府の法律顧問を務めたのち、アメリカに駐在する公使となった。二年後に大隈重信と板垣退助による政党内閣ができると急いで帰国し、党の分裂を主導して新しい政治の流れをつくろうとした。権力をつかむための動きは激しかった。
伊藤博文とともに立憲政友会をつくり、第四次伊藤内閣で通信を受け持つ逓信大臣として初めて大臣となった。港や鉄道など地方の要望を党が取り上げて実現し、支持を広げるという日本の政党政治の原型を築いたとされる。しかし疑惑で間もなく辞職した。
東京市の役所で、彼を憎む人物に襲われ、満五十一歳で命を落とした。金の力で政治を動かすと激しく批判されたが、後任の大臣の原敬は、お金についてはきれいな男だったと評した。亡くなった後に残ったのは借金だけだったという。
前島密板垣退助大隈重信後藤象二郎伊藤博文陸奥宗光中江兆民原敬
ベルツ乃木希典高木兼寛小泉八雲荻野吟子伊沢修二高村光雲児玉源太郎
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。