日本史人生シミュレーター

伊沢修二

唱歌を広め、日本の音楽教育の基礎を築いた教育者
時代:江戸末〜明治時代 / 1851年〜1917年(66歳ほど)
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歩んだ道

1851年

貧しい下級武士の家

信濃の高遠藩の城下で、藩士の子として生まれた。父は禄の少ない下級武士で、暮らしはひどく貧しかったという。苦しい家計のなかで育った少年は、学問で身を立てようと考えるようになった。のちに音楽や言葉の教育で大きな仕事を残すことになる。

1861年

藩校に学ぶ

高遠藩の藩校である進徳館に入り、学問を学び始めた。小さな藩の学校だったが、まじめに勉強を重ね、学ぶことの面白さを知った。この学校での学びが、のちに江戸や東京へ出て新しい学問に挑む力の土台になった。

1867年

万次郎に英語を学ぶ

江戸に出て、漂流してアメリカで暮らした経験を持つ中浜万次郎から英語を学んだ。万次郎が海外へ出かけた後は、築地に住むアメリカ人宣教師について英語の勉強を続けた。京都に出て蘭学なども学び、やがて藩の推薦を受けて大学南校に進んだ。

1874年

子どもに歌を

文部省に勤めたのち、愛知県の師範学校の校長となった。付属の幼稚園で、日本の童謡を使って子どもたちが歌いながら遊ぶ遊戯唱歌を始めた。歌を通して子どもを育てるという考えは、のちの音楽教育の仕事へとつながっていく最初の一歩だった。

1875年

アメリカ留学

師範学校の教育を調べるため、高嶺秀夫らとともにアメリカへ留学し、マサチューセッツの師範学校で学んだ。ここで音楽教育家のルーサー・メーソンから音楽の教え方を学び、のちに日本の唱歌のもとになる歌にも出会ったと考えられている。

1876年

ベルとの出会い

アメリカでは、言葉をうまく話せない人のための発音の教え方を、グラハム・ベルから学んだ。ベルが電話を発明すると、金子堅太郎とともにその下宿を訪ね、通話を体験したと伝わる。英語以外の言葉で電話を使ったのは、これが初めてだったという。

1878年

帰国

ハーバード大学でも理科や化学などを学び、耳や言葉に障害のある人の教育も研究したうえで日本へ戻った。留学で得た知識をもとに、師範学校の教え方や音楽、体操など、日本の学校に新しい教育の方法を取り入れる仕事に取りかかることになった。

1879年

音楽取調掛

東京師範学校の校長となり、西洋の音楽を学校に取り入れる準備をする音楽取調掛の責任者に任じられた。恩師のメーソンを日本に招き、協力して日本人に合う音楽教育のあり方を探った。文部卿の寺島宗則に、音楽を調べるための計画書も出した。

1881年

小学唱歌集

メーソンとともに、学校で歌うための歌をまとめた小学唱歌集の編集を進め、その最初の巻が出された。西洋の旋律に日本語の歌詞をつけた歌も多く、今も歌われる蝶々の旋律もこの流れで日本に伝わったと考えられている。学校で歌う文化の始まりだった。

1888年

音楽学校と盲唖学校

東京音楽学校の校長となり、あわせて目や耳に障害のある子どもが学ぶ東京盲唖学校の校長も務めた。のちに教育の団体をつくり、国が小学校の費用を補助するよう求める運動にも力を注いだ。教育を国の柱と考え、その充実を訴え続けた。

1895年

台湾での教育

日清戦争の後に台湾が日本の統治下に入ると、台湾に渡って教育行政の責任者となった。台北の北にある芝山巌に学校を開き、日本語の教育を始めた。翌年、彼が日本に戻っていた間に学校が襲われ、六人の教員が命を落とすという痛ましい事件が起きた。

1903年

吃音を治す

貴族院の議員も務めたのち、うまく話せない吃音に悩む人のために楽石社をつくり、発音を正す指導に力を注いだ。アメリカでベルから学んだ発音の教え方を生かしたもので、のちには朝鮮や台湾、ハワイから学びに来る人も指導した。

1917年

最期

脳の病気のため、満六十五歳で亡くなった。音楽、障害のある人の教育、発音の指導、国の教育制度づくりと、その仕事は幅広かった。子どもたちが学校で歌を歌う風景は、彼が種をまいたものの一つとして、今も受け継がれている。

この時代に起きたこと

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