信濃の高遠藩の城下で、藩士の子として生まれた。父は禄の少ない下級武士で、暮らしはひどく貧しかったという。苦しい家計のなかで育った少年は、学問で身を立てようと考えるようになった。のちに音楽や言葉の教育で大きな仕事を残すことになる。
高遠藩の藩校である進徳館に入り、学問を学び始めた。小さな藩の学校だったが、まじめに勉強を重ね、学ぶことの面白さを知った。この学校での学びが、のちに江戸や東京へ出て新しい学問に挑む力の土台になった。
江戸に出て、漂流してアメリカで暮らした経験を持つ中浜万次郎から英語を学んだ。万次郎が海外へ出かけた後は、築地に住むアメリカ人宣教師について英語の勉強を続けた。京都に出て蘭学なども学び、やがて藩の推薦を受けて大学南校に進んだ。
文部省に勤めたのち、愛知県の師範学校の校長となった。付属の幼稚園で、日本の童謡を使って子どもたちが歌いながら遊ぶ遊戯唱歌を始めた。歌を通して子どもを育てるという考えは、のちの音楽教育の仕事へとつながっていく最初の一歩だった。
師範学校の教育を調べるため、高嶺秀夫らとともにアメリカへ留学し、マサチューセッツの師範学校で学んだ。ここで音楽教育家のルーサー・メーソンから音楽の教え方を学び、のちに日本の唱歌のもとになる歌にも出会ったと考えられている。
アメリカでは、言葉をうまく話せない人のための発音の教え方を、グラハム・ベルから学んだ。ベルが電話を発明すると、金子堅太郎とともにその下宿を訪ね、通話を体験したと伝わる。英語以外の言葉で電話を使ったのは、これが初めてだったという。
ハーバード大学でも理科や化学などを学び、耳や言葉に障害のある人の教育も研究したうえで日本へ戻った。留学で得た知識をもとに、師範学校の教え方や音楽、体操など、日本の学校に新しい教育の方法を取り入れる仕事に取りかかることになった。
東京師範学校の校長となり、西洋の音楽を学校に取り入れる準備をする音楽取調掛の責任者に任じられた。恩師のメーソンを日本に招き、協力して日本人に合う音楽教育のあり方を探った。文部卿の寺島宗則に、音楽を調べるための計画書も出した。
メーソンとともに、学校で歌うための歌をまとめた小学唱歌集の編集を進め、その最初の巻が出された。西洋の旋律に日本語の歌詞をつけた歌も多く、今も歌われる蝶々の旋律もこの流れで日本に伝わったと考えられている。学校で歌う文化の始まりだった。
東京音楽学校の校長となり、あわせて目や耳に障害のある子どもが学ぶ東京盲唖学校の校長も務めた。のちに教育の団体をつくり、国が小学校の費用を補助するよう求める運動にも力を注いだ。教育を国の柱と考え、その充実を訴え続けた。
日清戦争の後に台湾が日本の統治下に入ると、台湾に渡って教育行政の責任者となった。台北の北にある芝山巌に学校を開き、日本語の教育を始めた。翌年、彼が日本に戻っていた間に学校が襲われ、六人の教員が命を落とすという痛ましい事件が起きた。
貴族院の議員も務めたのち、うまく話せない吃音に悩む人のために楽石社をつくり、発音を正す指導に力を注いだ。アメリカでベルから学んだ発音の教え方を生かしたもので、のちには朝鮮や台湾、ハワイから学びに来る人も指導した。
脳の病気のため、満六十五歳で亡くなった。音楽、障害のある人の教育、発音の指導、国の教育制度づくりと、その仕事は幅広かった。子どもたちが学校で歌を歌う風景は、彼が種をまいたものの一つとして、今も受け継がれている。
高木兼寛小泉八雲星亨荻野吟子高村光雲児玉源太郎ジョサイア・コンドル北里柴三郎
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。