後小松天皇の子と伝わる。母は宮中に仕える女性だったが、宮中を出て一休を産んだとされる。
5歳で京都の安国寺に入り、修行を始めた。幼いころから詩の才能があったという。のちの「とんち話」の多くは、江戸時代に作られた物語である。
名声や出世にこだわらない清らかな僧・謙翁宗為のもとで修行した。しかし4年後に師が亡くなり、深く悲しんで思いつめ、湖に身を投げようとして止められたと伝わる。
近江の堅田にいた厳しい禅僧・華叟宗曇の弟子となり、「一休」の名をもらった。貧しい暮らしの中、香袋づくりなどで生活をささえながら修行した。
琵琶湖の舟の上で座禅をしていたとき、カラスの鳴き声を聞いて悟りを開いたと伝わる。26歳だった。
このころから、形ばかりの修行や、お金や地位を求める僧たちを厳しく批判し、自らはぼろの衣を着て町を歩いた。正月に竹の先にどくろをつけて「ご用心」と歩いた、という話も伝わる。
応仁の乱が起き、京都が焼けた。一休は戦火を避けて各地を移り、山城の薪村(京田辺市)の酬恩庵などで暮らした。
このころ、目の見えない旅の芸能者・森女と出会い、晩年をともに過ごした。その思いは漢詩集『狂雲集』にうたわれている。
天皇の命令で、80歳で京都の大徳寺の住持となった。乱で焼けた大徳寺を、堺の豪商たちの協力で立て直した。自身は寺に住まず、酬恩庵から通ったという。
酬恩庵で87歳で亡くなった。「死にとうない」と言い残したという話も伝わる。茶の湯の村田珠光ら、多くの文化人が一休のもとに集まった。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。