3代将軍・足利義満の子として生まれた。兄の義持が将軍を継いだため、幼くして寺に入ることになった。
このころ京都の青蓮院に入り、義円という名の僧となった(年は諸説あり)。学問にはげみ、のちに天台宗の最高の位・天台座主にまでなった。
兄の義持が跡継ぎを決めないまま亡くなった。重臣たちは石清水八幡宮でくじを引いて次の将軍を決め、義円が選ばれた。同じ年、近江の馬借をきっかけに正長の土一揆が起き、農民たちが借金の帳消しを求めた。
僧をやめて名を改め、6代将軍となった。将軍の力が弱まっていたため、自ら裁判に関わるなど、将軍中心の強い政治をめざした。
兄が中止していた明との勘合貿易を再開し、幕府の財政を立て直した。
幕府に逆らう比叡山延暦寺を厳しく攻めた。追いつめられた僧たちは根本中堂に火を放って抗議した。
幕府に従わない鎌倉公方の足利持氏を攻めた(永享の乱)。翌年、持氏は自ら命を絶った。
結城合戦で持氏の残党をしずめた。気に入らない守護大名や公家を次々に処罰し、領地を取り上げた。皇族の日記には「万人恐怖」と書かれた。
守護大名の赤松満祐は、自分も領地を取り上げられると恐れた。勝利の祝いとして満祐の屋敷に招かれた義教は、猿楽を見ている最中に討たれ、命を落とした(嘉吉の変)。将軍の権威は大きく揺らいだ。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。