赤松義則の子として生まれた。生年は1381年とされるが1373年説もある。赤松氏は播磨・備前・美作などを治める有力守護で、満祐は室町幕府の有力大名として育った。
父のあとをついで赤松氏の家督を継ぎ、播磨などの守護となった。幕府の宿老として京都と領国とを往復し、将軍足利義持や義教の時代に守護大名としての地位を固めていった。
播磨を中心に守護領国の支配を固め、家臣団を組織した。交易や寺社との関係にも気を配り、戦乱のあいだも領国の安定をはかった。京都での政争と領国の実務を両立させる日々だった。
くじ引きで選ばれた足利義教が将軍になると、満祐は有力守護の一人としてこれに仕えた。義教は守護の力を抑える強権政治を進め、赤松氏も所領や地位をめぐって次第に圧迫を感じるようになった。
嘉吉の乱に至るまで、満祐は幕政に参加しつつ領国経営にあたった。義教の怒りを買う守護が次々に罰せられるなか、満祐も一門の扱いなどをめぐり将軍との関係が悪化していったと伝えられる。
義教は有力守護を相ついで罰し、一色氏や土岐氏などへの厳しい処置が続いた。満祐もいつ我が身に及ぶか恐れ、幕府への信頼を失っていったとされる。強すぎる将軍権力への反発が、のちの決行につながった。
関東で鎌倉公方足利持氏が滅ぼされる永享の乱が起き、義教の強権はさらに目立った。畿内の守護たちも将軍の意向に逆らえず、満祐の不満は募る一方だった。守護と将軍の緊張は頂点に近づいていた。
義教が赤松一門の別家に所領を与えるなど、本家の満祐を牽制する動きを強めたとされる。満祐は守護としての面目を傷つけられたと感じ、深い不満を抱いた。討伐される不安もあったと伝わる。
京都の自邸に義教を招き宴会の席で将軍を殺害した。満祐は領国の播磨へ逃げ、城にこもって抵抗したが、幕府軍に攻められて敗れた。乱は嘉吉の乱と呼ばれ、将軍暗殺の衝撃は全国に広がった。
播磨で敗れた満祐は、城中で自ら命を絶ったと伝えられる。赤松本家はいったん滅亡し、所領は山名氏らに分けられた。のちに赤松氏は再興されるが、満祐の名は将軍殺しの人として長く語られた。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。