公家の今小路基冬の子として生まれた。母は聖護院に仕える房官の娘で、のちに将軍足利義満の妻日野業子に仕えた。父を早くに亡くしたため兄に育てられ、関白二条良基の猶子にもなった。こうした縁が、のちに義満の猶子となる道を開いたと考えられている。
三宝院の門跡が義満の怒りを買って追われると、満済は出家し、同時に醍醐寺三宝院の門跡と醍醐寺の座主に任じられた。義満から一字を与えられて満済と名のった。修行を積む前に高い地位に就いたことは、のちのちまで本人の負い目になったといわれる。
出家した義満に付き従って比叡山延暦寺におもむき、義満とともに戒を受けた。将軍の猶子として特別な扱いを受けていた満済だが、その一方で密教の修行も決まりどおり一つずつ積み重ね、僧としての本当の実力を身につけようと努めた。
義満が亡くなった直後、将軍の身を祈りで守る護持僧に起用された。義満は満済の修行がまだ足りないことを知っていて、それまで起用しなかったともいわれる。こののち4代将軍足利義持の厚い信頼を受け、祈祷だけでなく政治の相談にもあずかるようになった。
僧の世界を取りまとめる法務に任じられ、のちには大僧正にまで昇った。東寺の長者などの要職もかね、真言宗を代表する僧となった。三宝院の門跡が醍醐寺の座主をかねるならわしは満済の時から始まったとされ、寺の歴史の上でも大きな節目となった。
暦の余白にその日の出来事を書きとめる日記をつけ始め、亡くなる年まで続けた。これが『満済准后日記』で、祈祷の記録だけでなく、幕府の会議や大名どうしの争い、外交のようすまで細かく記されている。自筆の本が今も残り、室町時代中ごろを知る第一級の史料とされる。
三宝院に伝わる密教の教えを、この年までにすべて学び終えた。高野山の僧からも教えを受けるなど、当時の僧の中でも群を抜く勉学と修行を重ねた。若くして高い地位に就いたという負い目を、満済は自分の実力で乗り越えたと評されている。
義持が後継ぎを決めないまま重い病に倒れると、満済は重臣たちと話し合い、義持の弟4人の中から石清水八幡宮でくじを引いて次の将軍を選ぶ方法をまとめた。こうして足利義教が選ばれた。同じ年、満済は三宝院の門跡として初めて准三后の待遇を受けた。
義教は厳しい政治で知られたが、満済の意見にはよく耳を傾けたという。満済は鎌倉公方足利持氏との対立や、九州の大名どうしの争いなど難しい問題で、幕府と大名の間を取りもった。僧でありながら政治を動かしたことから「黒衣の宰相」と呼ばれる。
40年近く務めた醍醐寺の座主の地位を、この年に退いた。長い間、寺をよく治めたことから、のちの安土桃山時代に寺を立て直した義演とならんで、醍醐寺の「中興の祖」とたたえられている。体が弱っていく中でも、将軍からの相談は続いた。
この年、満済は亡くなった。伏見宮貞成親王は日記『看聞日記』の中で、満済を「天下の義者」と記している。幕府の中心にいながら冷静に物事を判断し、人の立場を思いやる人柄が、同じ時代の人々からも高く評価されていたことがわかる。
斯波義将足利義満世阿弥尚巴志赤松満祐足利義持足利義教一休宗純
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。