上総国(今の千葉県)の武士埴谷氏の一族に生まれたと伝わる。幼いころに日蓮宗の寺に入って出家し、中山門流の僧日英のもとで学んだ。日蓮の教えを一途に信じる強い性格は、この少年のころの修行の中で育まれたと考えられている。
京都に上り、日蓮の教えを広める活動を始めた。日蓮宗では、ほかの教えの誤りをはっきり指摘して正しい教えに導く「折伏」というやり方を重んじていた。日親はとりわけ激しい折伏で知られ、町の人々の前でも臆せずに教えを説いたという。
中山門流の布教の責任者として肥前国(今の佐賀県)に送られ、熱心に教えを広めた。しかしその厳しすぎるやり方が問題とされ、ついに中山門流から破門されてしまった。自分の信じる教えを曲げない態度は、同じ宗派の僧たちとも衝突を生んだのである。
京都に戻った日親は、自らの拠点となる本法寺を開いたと伝わる(諸説あり)。どの派にも属さず、自分の信じる日蓮の教えをひたすら説く道を選んだのである。本法寺はその後たびたび苦難にあいながらも受け継がれ、今も京都に残っている。
自分の考えをまとめた『折伏正義抄』を著した。この中で日親は、正しい教えを守るためには相手がだれであっても恐れずに誤りを正すべきだと説いている。この強い信念は、やがて時の権力者である将軍にまで向けられることになった。
『立正治国論』を書いて将軍足利義教に差し出し、日蓮の教えによって国を治めるよう強く求めた。しかし義教の怒りを買って捕らえられ、本法寺も壊された。獄中で厳しい責めを受け、焼けた鍋を頭にかぶせられたと伝わり、「鍋かぶり日親」と呼ばれるようになった。
嘉吉の乱で義教が亡くなると、日親は許されて獄を出た。獄中では、同じく捕らえられていた刀剣の目利きの本阿弥清信が日親の人柄にふれて信者になったと伝わる。のちに本阿弥家は本法寺を支え続け、一族からは芸術家の本阿弥光悦が出ている。
出獄後、日親は本法寺を建て直し、肥前などでも布教を続けた。しかしこの年ごろ、その活動がまたしても幕府にとがめられ、本法寺はふたたび壊されたと伝わる。それでも日親はくじけず、のちに寺を再建して教えを説き続けた。
晩年になっても筆をとり、故郷の一族にあてた『埴谷抄』などを著して、信仰の心がまえを説いた。各地の信者たちとのつながりも大切にし、弟子を育てて教えを伝えた。どんな苦難にも屈しない日親の生き方は、京都の町衆を中心に多くの信者を集めた。
この年、京都で亡くなった。権力者に対しても恐れずに意見し、何度捕らえられても教えを曲げなかった日親の姿は、のちの日蓮宗の人々に大きな影響を与えた。本法寺には今も日親ゆかりの品が伝えられ、その生涯は語り継がれている。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。