イギリスのロンドンで、銀行員の父のもとに生まれた。同じ名の祖父は聖書についての本を書いた人で、親せきには聖職者や技術者、芸術家が多かった。少年のころ父を急に亡くしたが、奨学金を得て学校に通い、建築家を目指すようになった。
父のいとこで建築家のトーマス・ロジャー・スミスの家に下宿しながら、サウスケンジントン美術学校とロンドン大学で建築学を学んだ。スミスはイギリス領インドの公共建築にかかわった人で、コンドルはここで建築の基本を身につけた。
ゴシック様式の復興で知られる建築家ウィリアム・バージェスの事務所に助手として入った。バージェスは日本の美術にも関心をもっていた人で、その影響で日本への興味がめばえたとも考えられる。のちにステンドグラスの技術も学んだ。
「カントリーハウスの設計」で、若い建築家にとって名誉あるソーン賞を受けた。このころ日本の工部省は、新しくできた工部大学校で建築を教える先生をイギリスに求めていた。コンドルは5年の契約で、その教師に選ばれた。
明治政府にまねかれて来日し、工部大学校の造家学(建築学)の教師となった。辰野金吾や片山東熊、曽禰達蔵ら第1期生をはじめ、多くの日本人建築家を育てた。日本の建築界の土台はコンドルの教えから築かれたといわれる。
日本の文化に深くひかれ、絵師の河鍋暁斎に弟子入りして、毎週土曜日に日本画の稽古に通った。のちに暁斎から「暁英」という画号を与えられた。暁斎の死後には英語で暁斎の画集を出し、師の作品を世界に紹介した。
設計を担当した鹿鳴館が東京の日比谷に完成した。外国の客をもてなす社交の場で、条約改正をめざす政府の欧化政策の象徴となった。舞踏会が開かれ、明治の時代の雰囲気を伝える建物として知られる。この前には上野の博物館も設計している。
工部大学校との契約を終え、帝国大学の講師も辞めて、東京で自分の建築事務所を開いた。この前には官庁を集める計画のため学生を連れてドイツへ出張している。以後は民間の建築家として、財界の人々の邸宅などを数多く手がけた。
設計を担当した東京・神田のニコライ堂が完成した。ロシア正教の大聖堂で、高いドームが目を引き、当時の東京で最も目立つ建物の一つとなった。この年には生け花について英語で書いた初めての本といわれる著書も出版した。
花柳流の日本舞踊の踊り手であった前波くめと結婚した。日本画だけでなく、華道や日本舞踊、落語などにも親しみ、日本の文化を深く愛した。この年には日本の庭園を英語で紹介した本も出し、日本の美を海外に伝えた。
設計を担当した三菱一号館が東京の丸の内に完成した。赤れんがの事務所建築で、丸の内のビジネス街の始まりとなった。その後も岩崎家の茅町の邸宅や高輪の邸宅、三井倶楽部など、明治から大正にかけて多くの名建築を残した。
東京・麻布の自宅で病気のため亡くなった。その11日前には妻のくめが先に亡くなっており、二人は護国寺に一緒に葬られた。東京大学には教え子たちが建てたコンドルの銅像があり、日本の近代建築の父として今もたたえられている。
荻野吟子伊沢修二高村光雲児玉源太郎北里柴三郎フェノロサ高峰譲吉下田歌子
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。