薩摩の出水郡の村で、郷士の長野家の次男として生まれた。幼いころに伯父で蘭方医の松木宗保の養子となり、松木弘安と名乗った。医者の家を継ぐ者として学問の道へ進むことになり、早くから長崎でオランダの学問にも触れたという。
江戸に出て、伊東玄朴や川本幸民といった当時一流の蘭学者のもとで学んだ。医学だけでなく、化学や物理などの西洋の科学にも強い関心を持った。こうした学びが、のちに電信などの新しい技術に目を向ける下地になったと考えられている。
幕府の洋学研究所である蕃書調所で教授の手伝いとなり、まもなく薩摩に戻って藩主の島津斉彬の侍医となった。進んだ考えを持つ斉彬のもとで、西洋の技術を試す仕事にも関わった。その後は再び蕃書調所に勤め、独学で英語を学び始めた。
幕府がヨーロッパへ送った使節団に、通訳兼医者として加わった。福沢諭吉や箕作秋坪も一緒だった。各国を回るなかで、ヨーロッパではオランダ語があまり通じないことを知り、これからは英語を中心に学ぶべきだと考えを改めた。
薩摩とイギリスの間で薩英戦争が起こり、藩の船に乗っていたところをイギリス側に捕らえられた。同じく捕らわれたのが五代友厚だった。帰国後は藩からも疑いの目を向けられ、しばらく身を隠して過ごすことになったと伝わる。苦い経験だった。
薩摩藩がひそかにイギリスへ送った使節団と留学生の一行に加わって渡英した。ロンドンではイギリスの政治家と会い、薩摩と直接手を結ぶ道を探った。この時の留学生たちの名は、今もロンドン大学の記念碑に刻まれている。
藩主の島津忠義に意見書を出し、大名が治めている土地と人々を朝廷に返すべきだと説いた。これはのちの版籍奉還につながる考えだった。鹿児島に設けられた藩の学校では英語を教え、新しい時代を担う若者の育成にも力を注いだ。
明治新政府に入り、神奈川で外国との交渉などに当たった。また東京と横浜の間に電信を引くことを強く働きかけ、この年に実現へと動き出した。こうした功績から、のちに日本の電気通信の父と呼ばれるようになった。
ハワイとの条約を結ぶ全権を務めたのち、イギリスに駐在する初めての公使としてロンドンへ赴いた。若いころに捕らわれの身として向き合ったイギリスと、今度は国を代表する外交官として向き合うことになった。外交の第一線での経験を積んだ。
参議と外務卿を兼ね、外交の責任者となった。不平等な条約を改め、日本が自分で関税を決める権利を取り戻す条約改正に取り組んだ。アメリカとの交渉はまとまりかけたが、イギリスなどの反対が強く、思うように進まなかった。
外国の船が日本の検疫に従わずに入港した事件などで交渉は行き詰まり、外務卿を辞めた。条約改正の道のりの長さを示す結果となった。その後は文部卿や元老院議長、アメリカ駐在の公使などを務め、政府の重い役目を担い続けた。
伯爵となり、天皇の相談に応じる枢密院では副議長を務めた。大日本帝国憲法の審議では、議会にも法律案を出す権利を認めるべきだと強く主張した。外国を見てきた経験から、国民の代表の力を大切にしようとしたと考えられている。
満六十歳で亡くなった。医者として出発し、蘭学から英学へと学びを広げ、幕府の使節、藩の外交、そして明治政府の外務卿へと歩んだ一生だった。電信の導入と条約改正への挑戦は、近代日本の外交と通信の歴史に名を残している。
由利公正大久保利通河鍋暁斎中村正直木戸孝允大鳥圭介江藤新平福沢諭吉
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。