京都の錦小路にある青物問屋(野菜の卸問屋)「枡屋」の長男として生まれた。
父が亡くなり家業を継いだが、商売には関心がうすく、絵に打ちこんだ。
このころ、狩野派や中国の絵を学んだのち、庭で鶏を飼って何年もじっと観察し、写生を重ねたと伝わる。
家業を弟にゆずり、絵だけに打ちこむ生活に入った。
鳥や魚、花などを色あざやかにえがいた大作「動植綵絵」をえがき始めた。約10年かけて30幅を完成させた。
「動植綵絵」を、釈迦三尊像とともに京都の相国寺に寄進した。のちに皇室に献上され、今は国宝となっている。
錦市場が営業を止められそうになったとき、市場を守るため役所との交渉に力をつくした。
京都の天明の大火で家を失った。のちに伏見の石峰寺の近くに移り住み、寺の五百羅漢の下絵をえがいた。
伏見で亡くなった。長く忘れられていたが、近年その細やかで大胆な絵が大きな人気を集めている。
石田梅岩賀茂真淵青木昆陽与謝蕪村田沼意次前野良沢池大雅鈴木春信
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。