紀州藩出身で、のちに幕臣となった田沼意行の子として江戸で生まれた。
のちの9代将軍家重の小姓となり、そば近く仕えた。
1万石の大名となり、美濃の郡上一揆の裁判にもかかわった。
10代将軍家治の側用人となり、遠江の相良に城をもつことを許された。
老中となり、幕府の政治の中心に立った。商人の力を生かして幕府の収入を増やそうとした。
商人の同業者の組合(株仲間)を認めて税を納めさせた。新しい銀貨もつくり、お金の流れをよくしようとした。
下総の印旛沼を干拓して新田を開く工事を始めた。長崎貿易では海産物の輸出を増やし、金銀を手に入れようとした。
浅間山の噴火や天候不順で天明の飢饉が起き、一揆や打ちこわしが広がった。わいろが横行していると批判も強まった。
若年寄だった子の意知が、江戸城の中で旗本に斬られて亡くなった。田沼の力は弱まり始めた。
ロシアとの交易も考え、蝦夷地に調査隊を送った。
将軍家治が亡くなると老中をやめさせられ、領地も大きく減らされた。
江戸で亡くなった。わいろ政治と悪くいわれてきたが、商業を重んじた先進的な政治家として見直されている。
賀茂真淵青木昆陽与謝蕪村伊藤若冲前野良沢池大雅鈴木春信平賀源内
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。