何をした人?
明治から昭和初期の社会運動家です。美作国の庄屋の家に生まれ、アメリカで苦学して帰国したあと、東京の神田にキングスレー館を開き、労働組合づくりや社会民主党の結成にかかわりました。のちにアメリカへ亡命し、ソビエト連邦でコミンテルンの幹部となって、モスクワで亡くなりました。
| 名前 | 片山潜 |
|---|---|
| 生没年 | 1859年(安政6年) – 1933年(昭和8年) |
| 時代 | 明治〜昭和時代 |
| 出身地 | 美作国 |
| 主な業績 |
|
美作国(今の岡山県)の山あいの村で、庄屋をつとめる藪木家の次男として生まれた。幼い名は菅太郎。三歳のころに父が家を出て僧となったため、母のもとで育った。農村の暮らしの中で、学問への強いあこがれを抱くようになったといわれる。
親類の片山家の養子となり、片山の姓を名のった。この縁組は兵役を避けるためだったともいわれる。地元の私塾で学んだあと岡山師範学校に入ったが、もっと広い世界で学びたいという思いが強く、まもなく学校をやめて東京へ向かうことになった。
上京し、私塾の攻玉社で雑用をしながら学ぶ塾僕として働いた。生活は苦しかったが、ここで知り合った友人の岩崎清七とは生涯の友となり、のちにアメリカでの学費を援助してもらうなど、長く支えられた。岩崎がアメリカへ渡ると、片山もその後を追う決心をした。
アメリカに渡り、サンフランシスコ近くで皿洗いやコックなどをして働きながら英語を学んだ。働きながら学ぶ日々は苦しかったが、中国人のキリスト教会に通ううちに信仰にふれ、その後キリスト教の洗礼を受けた。アメリカの社会を下から見た経験が、のちの思想の土台となった。
アメリカでいくつもの大学や神学校で学び、イェール大学の神学校などで社会問題に取り組むキリスト教の考えに強く影響を受けた。ギリシャの古典も原文で学び、学位を得て十年以上ぶりに帰国した。帰国後は英語を教えたが、まもなく職を失い、新しい道を探った。
イギリスやアメリカのセツルメント運動にならい、東京の神田の自宅を改装して、貧しい人々を助ける拠点キングスレー館を開いた。日本で最初の隣保館とされ、子どもの教育や講演会などを行った。同じころ結婚し、のちに長女と長男が生まれた。
高野房太郎らとともに、日本で最初の本格的な労働組合づくりに大きな役割を果たし、機関紙『労働世界』を創刊して主筆を務めた。働く人々が団結して自分たちの暮らしを守るべきだと説き、日本の労働運動の出発点を築いた一人となった。
安部磯雄や幸徳秋水らとともに、日本で最初の社会主義政党である社会民主党をつくった。貧富の差をなくし、平等な社会をめざすことをかかげたが、政府はその日のうちに結党を禁止した。それでも片山は、講演や著作を通じて社会主義の考えを広めていった。
再びアメリカに渡り、オランダのアムステルダムで開かれた社会主義者の国際大会に出席した。日露戦争のさなか、ロシア代表のプレハーノフと壇上で握手を交わし、両国の労働者は戦争に反対すると訴えて大きな拍手を浴びた。大会の副議長にも選ばれた。
日本社会党に加わったが、議会を通じて社会を変えようとする片山らと、直接行動を重んじる幸徳秋水らとの間で意見が分かれた。片山は新しい政党をつくったが、すぐに禁止された。運動の中で考え方の違う仲間と対立しながらも、自分の信じる道を進んだ。
大みそかから元日にかけて起こった東京の市電のストライキを指導したとして捕らえられ、牢に入れられた。この年、大正天皇の即位にともなう恩赦で出獄したが、社会主義者への取りしまりはいっそう厳しくなり、日本で活動を続けることは難しくなっていった。
日本を離れてアメリカへ亡命した。三年後にロシア革命が起こると、その考えに強くひかれ、マルクスやレーニンの思想を支持するようになった。アメリカやメキシコで共産主義の政党をつくる手助けをするなど、北アメリカでの運動を指導した。
ソビエト・ロシアに渡り、世界の共産主義運動を指導したコミンテルンの幹部となった。国の外から日本の共産党づくりを指導し、戦争に反対する国際的な運動にも取り組んだ。晩年は重い病に苦しみ、娘たちに支えられながらモスクワで暮らした。
モスクワの病院で病気のため亡くなった。葬儀には多くの人々が集まり、遺骨はクレムリンの壁の墓所に葬られた。そこに葬られた日本人は片山ただ一人である。東京の青山霊園にも墓碑があり、ふるさとの岡山県久米南町には記念館が建てられている。
A. 明治から昭和初期の社会運動家です。美作国の庄屋の家に生まれ、アメリカで苦学して帰国したあと、東京の神田にキングスレー館を開き、労働組合づくりや社会民主党の結成にかかわりました。のちにアメリカへ亡命し、ソビエト連邦でコミンテルンの幹部となって、モスクワで亡くなりました。
A. 明治〜昭和時代の人物です。1859年(安政6年)に生まれ、1933年(昭和8年)に亡くなりました。
A. 片山潜は美作国の生まれです。
A. 日露戦争中の1904年、オランダのアムステルダムで開かれた社会主義者の国際会議で、日本代表の片山潜とロシア代表のプレハーノフが壇上で握手しました。戦争をしている国どうしの労働者が手を結ぶ姿として、大きな反響を呼びました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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