土佐国の井口村(今の高知市)で、土佐藩士植木直枝の長男として生まれた。家は下級の武士で、暮らしは豊かではなかった。幼いころから習字を学び、藩校の致道館で学問を身につけた。のちに自由民権運動の論客として名を上げる。
土佐の海南私塾の生徒に選ばれたが、まもなくやめて帰郷した。この年、朝鮮への使節派遣をめぐる明治六年の政変で、土佐出身の板垣退助らが政府を去った。これに強く刺激された枝盛は、東京に出て学ぶ決心をした。
東京に出て、福沢諭吉の慶応義塾の三田演説会に熱心に通い、明六社の演説会にも参加して西洋の思想を吸収した。また新聞への投書を始め、政府を批判する文章を次々に書いた。キリスト教の教会にも通い、思想の幅を広げた。
新聞に載った投書「猿人君主」が、政府への批判を取り締まる讒謗律にふれ、2か月間牢に入れられた。しかしこの経験でかえって考えを強め、出獄後は人間の自由や権利についての論文を書き続けた。
板垣退助にしたがって高知に帰り、板垣の結成した立志社に加わった。国会を開くことを求める立志社建白書の起草にかかわり、新聞の編集や執筆も担当した。この年は西南戦争の年で、立志社の一部の者が捕らえられたが、枝盛は逮捕をまぬかれた。
全国を遊説して回り、福岡では頭山満に招かれて向陽義塾の開校式で演説した。この年、人々にわかりやすい言葉で自由と権利の大切さを説いた『民権自由論』を出版し、多くの人に読まれた。演説が集会条例にふれ、一時演説を禁じられもした。
国会開設を前に民間で多くの憲法の私案がつくられるなか、『東洋大日本国国憲按』を起草した。国民の自由や権利を幅広く認め、政府が人々の権利を不当におかすときは抵抗し、新しい政府をつくる権利まで定めた最も民主的な案とされる。
酒税の引き上げに反対する酒屋会議を呼びかけ、大阪で開いた。板垣が岐阜で襲われる事件の直後のことだった。その後上京して自由党の『自由新聞』で、中江兆民や馬場辰猪らとともに社説を受け持ち、民権の論陣を張った。
高知県会議員に当選し、地方の政治に携わった。前の年には新聞に「貧民論」を発表し、貧しい人々の暮らしに目を向けた。また女性の戸主にも投票を認めていた土佐の村会などを男女同権のさきがけとしてたたえ、女性の権利も訴えた。
大阪へ行き、中江兆民の『東雲新聞』を手伝って、のちに社会主義者となる幸徳秋水らと知り合った。民権派が再びまとまろうとする大同団結運動にも加わり、大隈重信の条約改正案に反対する運動を進めた。
帝国議会の開設にあたり、第1回衆議院議員総選挙で高知県から立候補して当選した。議会では怒りっぽい議員として新聞に書かれるほど激しく論じた。翌年、板垣らとの意見の違いから立憲自由党を離れ、土佐派の議員を率いた。
第2回総選挙を前に、胃の病気が悪くなって東京で急に亡くなった。死後は長く忘れられたが、昭和になって憲法学者鈴木安蔵が残された文書を調べて光を当てた。「自由は土佐の山間より」の言葉は今、高知県の県詞となっている。
フェノロサ高峰譲吉下田歌子小村寿太郎御木本幸吉坪内逍遥嘉納治五郎大山捨松
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