江戸の根津に、西洋式の砲術を学んだ幕臣田辺孫次郎の長男として生まれた。生まれて九か月で父が病気で亡くなり、幼くして家を継いだ。叔父で幕府の外交に携わった田辺太一が後見人となって育て、幼いころから漢学や洋学を学ばせた。
幕府が倒れたのち、叔父の太一が静岡藩の沼津兵学校の教授となったため、一家で沼津に移った。翌年には兵学校の付属小学校に入った。のちに叔父が外務省に仕えると東京に戻り、近くの塾で英語や数学、漢学を学んだ。叔父の歩みが、朔郎の学びの道を開いていった。
岩倉使節団の一員として欧米をまわった叔父が帰国し、横浜港に迎えに行った。そのとき外国の汽船の機関室で蒸気エンジンを見て強く心をひかれ、工学に興味を持って、科学者になることを志した。この偶然の出会いが、技術者としての一生を決めるきっかけとなった。
叔父の勧めで工学を学ぶ学校の付属小学校に入ったのち、この年、日本の技術者を育てる工部大学校の土木科に入学した。外国人の教師から最新の土木技術を学び、熱心に勉強した。四年を終えたときには特別に優れた学生として表彰を受けるほどの成績を収めた。
東京に都が移って元気を失った京都を立て直すため、京都府知事の北垣国道が、琵琶湖の水を京都に引く疏水工事を計画していることを知った。朔郎は卒業研究として京都へ調査の旅に出て、この工事の計画を論文にまとめた。この論文がその後の運命を大きく変えることになる。
工部大学校を卒業すると、学長の大鳥圭介の推薦を受け、北垣知事に求められて京都府に採用された。卒業したばかりの若者が、琵琶湖疏水という国でも例のない大工事の責任者となった。山をくぐるトンネルを掘る難しい工事に、現場の人々とともに取り組んだ。
工事の途中でアメリカへ渡り、運河の水の力で栄えた町や、水力発電を行う鉱山の町アスペンなどを見て回った。そこで、はじめ水車で動力を得る予定だった計画を、水の力で電気をつくる方法に変えることを決めた。この判断がのちの京都の産業を大きく発展させた。
琵琶湖疏水が完成し、琵琶湖の水が京都へと流れこんだ。その功績により、東京の帝国大学の教授に任じられた。同じ年、榎本武揚の仲立ちで、北垣国道の長女静子と結婚した。工事をともに進めた知事は、朔郎にとって義理の父ともなったのである。
疏水の水を使う蹴上発電所が完成し、日本で初めての事業用の水力発電所となった。その電気は京都の町に路面電車を走らせ、工場を動かす力となった。同じ年には工学博士の学位も授けられた。京都の近代化を支えた技術者として、その名は広く知られるようになった。
琵琶湖疏水の計画をまとめた卒業論文が海外の雑誌に載り、イギリスの土木学会からその最高の賞であるテルフォード・メダルを贈られた。学生のころの研究が、世界に認められたのである。一方、この年には腸チフスにかかって入院し、病と闘う時期も経験した。
北海道庁の長官となった義父の北垣国道に求められ、大学を辞めて北海道の鉄道づくりの責任者となった。北海道全体におよそ千六百キロメートルの幹線鉄道を通す計画の調査に取りかかり、家族とともに北海道へ移り住んだ。十勝と石狩の間の峠には、狩勝峠と名をつけた。
北海道庁の鉄道部長として、滝川から旭川までを結ぶ上川線を開通させた。寒さの厳しい広大な土地での鉄道工事は困難の連続であったが、北海道の内陸の開発を進める大きな一歩となった。のちにシベリア鉄道を視察し、その見聞を本にまとめている。
京都の帝国大学の教授となっていた朔郎は、政府の求めで、海の底を通るトンネルの調査を行った。これはのちの関門トンネルの事業につながる。同じ年には、日本が初めて参加したロンドンの国際道路会議に出席し、ヨーロッパと北アメリカの土木の施設を見て回った。
京都の帝国大学の工科大学長に就任し、多くの技術者を育てた。この年、ともに疏水を築いた義父の北垣国道が亡くなった。その前の年には育ての親である叔父の太一を、さらにその前の年には長男を亡くしており、相次ぐ別れを経験した時期であった。
大学を退いたのちも、大阪の地下鉄など各地の鉄道の計画に関わり続けた。京都府は生前にその功績をたたえる碑を建てている。この年に亡くなり、京都の大日山と東京の青山の墓地に葬られた。琵琶湖疏水は今も京都の町に水を送り続けている。
坪内逍遥嘉納治五郎大山捨松内村鑑三森鷗外新渡戸稲造岡倉天心津田梅子
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