陸奥国弘前(今の青森県)に生まれた。本名は実。藩校で学び、維新後は司法省や太政官に出仕して法律や行政の実務を経験した。若い官吏として近代国家の仕組みに触れたことが、のちの言論活動の土台となった。
官僚生活に疑問を抱き官を辞し、新聞記者の道へ進んだ。政府寄りの論調に飽きたらず、独自の視点で国のかたちを論じようとした。この転身が、のちの新聞『日本』創刊につながる。
新聞『日本』を創刊し、主筆として論陣を張った。欧化政策への批判と、日本の伝統や自主を重んじる国粋主義の立場を鮮明にした。新聞『日本』は知識人や学生に広く読まれた。
憲法発布の年、立憲制の意義と国民の自覚を論じる文章を多く書いた。単に西洋をまねるのではなく、日本に根ざした立憲を求める姿勢は、読者に強い印象を残した。周囲の記録にも、そのときの様子が残されている。
濃尾地震など災害や社会の矛盾にも紙面で向き合った。国粋を唱えつつ、弱者や地方の実情を無視しない論調は、単なる排外とは異なるものだった。記者としての視野を広げていった。
日清戦争のころは勝利に沸く世論のなかで、戦後経営や外交の慎重さを説く論も書いた。熱狂一辺倒ではない論調は、ときに不評も招いたが、羯南の持論だった。周囲の記録にも、そのときの様子が残されている。
持病が重くなり、新聞『日本』の第一線から退くことを余儀なくされた。それでも論説や著作で国粋主義の考えを説き続け、後輩の記者たちに影響を与えた。周囲の記録にも、そのときの様子が残されている。
『近時政論考』など著作をまとめ、自らの政治思想を体系的に示した。新聞記事だけでなく単行本でも読者に訴え、明治中期の言論史に名を残す存在となった。周囲の記録にも、そのときの様子が残されている。
日露戦争後の国際関係や国内改革について、なお発言を続けた。勝利に酔うのではなく、国力の使い方を問う姿勢は晩年まで変わらなかった。周囲の記録にも、そのときの様子が残されている。
東京で病のため亡くなった。享年四十九。新聞『日本』を舞台に国粋主義を唱え、欧化一辺倒ではない国民国家の道を問うた生涯だった。短い人生のなかで、明治新聞史に大きな足跡を残した。
下田歌子辰野金吾小村寿太郎植木枝盛御木本幸吉成瀬仁蔵坪内逍遥秋山好古
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。