大和国(今の奈良県)に生まれた。若いころキリスト教に触れ、信仰と教育の結びつきを考えるようになった。のちにアメリカへ渡り、神学と女子教育の実情を学んだことが、一生の仕事の出発点となった。
渡米して神学を学び、あわせて女子大学の様子を見学した。女性が高度な学問を修める現場を目にし、日本にも同様の機関が必要だと確信した。帰国後の教育事業の構想は、ここで固まった。
帰国後、各地で女子教育の必要性を説いて回った。当時は高等教育を受ける女性はごく少なく、理解者を増やすこと自体が大きな仕事だった。信念徹底を合言葉に、支援者を募り始めた。
東京・目白に日本女子大学校を開き、初代校長となった。日本女子大学校(college)は家政・国文・英文などの学科を備え、女子高等教育の先駆となった。開校には多くの協力者が集まった。
人格の完成と社会貢献を柱とする教育方針を掲げ、信念徹底の精神を生徒に求めた。単なる知識の暗記ではなく、自ら考え行動する女性を育てることを目指した。校風はしだいに定着していった。
卒業生が教員や家庭、社会事業などで活躍し始め、学校の評判は高まった。女子が学ぶ意義を実例で示すことが、反対論を静めていく力にもなった。成瀬はさらに学科の拡充を進めた。
大正に入り、施設の拡充とカリキュラムの見直しを進めた。産業や家庭の変化に合わせて教育内容を更新し、日本女子大学校の役割を広げようとした。資金集めにも奔走した。周囲の記録にも、そのときの様子が残されている。
各地の講演や著作で、女子が学ぶ意義を説き続けた。家庭と社会の両方で力を発揮できる人材を育てることが、国の発展にもつながると訴えた。日本女子大学校の卒業生が増えるなか、教育者としての発信も精力的に行った。
長年の過労から健康を損ない、第一線の仕事を減らさざるを得なくなった。それでも生徒や教員への助言は続け、学校の将来を案じ続けた。創立者としての責任感は変わらなかった。
東京で病のため亡くなった。享年六十。日本女子大学校を創り、女子高等教育の道を開いた功績は大きく、のちの日本女子大学へと受け継がれた。信念徹底を説いた教育者の生涯として、長く記念されている。
小村寿太郎植木枝盛陸羯南御木本幸吉坪内逍遥秋山好古片山潜嘉納治五郎
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。