何をした人?
鎌倉幕府の3代将軍で、歌人です。源頼朝と北条政子の次男として鎌倉に生まれ、兄の頼家に代わって幼くして将軍となりました。藤原定家に和歌を学び、『金槐和歌集』を残しました。武士として初めて右大臣となりましたが、鶴岡八幡宮で甥の公暁に命を奪われました。
| 名前 | 源実朝 |
|---|---|
| 生没年 | 1192年(建久3年) – 1219年(建保7年) |
| 時代 | 鎌倉時代 |
| 出身地 | 鎌倉 |
| 主な業績 |
|
鎌倉で、源頼朝と北条政子の次男として生まれた。幼い名は千幡。この年、父の頼朝は征夷大将軍に任じられており、将軍家の子として大切に育てられた。十歳年上の兄・頼家がいた。
父の頼朝が亡くなり、兄の頼家が跡をついだ。若い頼家のもとでは重臣たちの合議が始まり、母の政子や祖父の北条時政らが幕府の行方を左右するようになった。幼い千幡は、大人たちの争いのただ中で育つことになった。
比企能員の変で兄の頼家が将軍の座を追われると、祖父の時政らにおされて3代将軍となった。「実朝」という名は後鳥羽上皇が選んだと伝わる。まだ幼かったため、政治の実権は執権となった時政が握った。
京都の公家・坊門信清の娘を妻に迎えた。妻は後鳥羽上皇のいとこにあたる。御家人の娘との縁談を退け、実朝自身が都の姫を望んだと伝わる。この結婚で上皇との結びつきが強まり、京都の文化への憧れも深まっていった。
牧氏事件で祖父の時政が実朝を退けようとしたとされ、母の政子と叔父の義時に守られた。このころから和歌を詠み始め、出来たばかりの『新古今和歌集』を取り寄せて熱心に学んだ。政治の不安の中で、和歌が心のよりどころになっていった。
自作の和歌三十首を京都の歌人・藤原定家に送り、批評を求めた。定家は和歌の心得を記した『近代秀歌』を書き送って実朝を導いたとされる。二人が会うことはなかったが、手紙を通じた師弟のつながりが続いた。
幕府の重臣・和田義盛が北条義時と対立して兵を挙げ、鎌倉で激しい戦いとなった。実朝は義時の側に立ち、乱はしずめられた。実朝が目をかけていた義盛の一族はほろび、将軍の力の弱さと北条氏の強さがはっきりした。
このころまでに詠んだ歌をまとめた『金槐和歌集』が成立したとされる。定家からは古い歌集『万葉集』も贈られた。のびやかで力強い万葉風の歌も多く、「大海の磯もとどろに寄する波」の歌はよく知られている。
二日酔いに苦しんだとき、禅僧の栄西が茶をすすめ、茶の効き目を記した書を差し出した。これが『喫茶養生記』とされる。実朝は栄西を深く信頼し、仏教にも心を寄せていった。茶が広まるきっかけの一つとして知られる話である。
宋から来た工人の陳和卿に会い、「あなたは前世で宋の医王山の長老だった」と告げられたと伝わる。実朝は以前に同じ夢を見ていたとして宋へ渡ることを望み、大きな船を造らせた。周りの者は止めたが、実朝の思いは固かった。
由比ヶ浜で完成した大船を海に浮かべようとしたが、浜が遠浅だったため船は動かず、そのまま浜で朽ちていった。宋へ渡る夢はかなわなかった。将軍としての不自由さと、遠い世界への憧れを物語る出来事として語られている。
朝廷から次々と高い官位を受け、武士として初めて右大臣となった。子がいなかったため、後鳥羽上皇の皇子を次の将軍に迎える話が、母の政子と朝廷の間で進められた。上皇との近い関係が、実朝の立場を支えていた。
右大臣就任のお礼の儀式のため雪の夜に鶴岡八幡宮を訪れた帰り道、甥の公暁におそわれて命を落とした。源氏の将軍はここでとだえ、のちの承久の乱へとつながった。『金槐和歌集』の歌は、のちに正岡子規らに高く評価された。
A. 鎌倉幕府の3代将軍で、歌人です。源頼朝と北条政子の次男として鎌倉に生まれ、兄の頼家に代わって幼くして将軍となりました。藤原定家に和歌を学び、『金槐和歌集』を残しました。武士として初めて右大臣となりましたが、鶴岡八幡宮で甥の公暁に命を奪われました。
A. 鎌倉時代の人物です。1192年(建久3年)に生まれ、1219年(建保7年)に亡くなりました。
A. 源実朝は鎌倉の生まれです。
A. 源実朝が自分の和歌をまとめた歌集です。「金」は鎌倉の「鎌」の字の偏、「槐」は大臣を表す言葉から名づけられたといわれます。『万葉集』を思わせる力強くまっすぐな歌が多く、のちに正岡子規らに高く評価されました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
この人の一生をたどる(自動再生)教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。