播磨の姫路に生まれた。祖母は土佐藩主山内一豊の妹で、父は山内家に仕えていたが、約束された領地をもらえず浪人となっていた。母は大坂の商家の娘である。父の死後、兼山は母とともに土佐へ帰り、山内家とのつながりの中で新たな道を歩むことになった。
このころ、父のいとこで藩の奉行を務めていた野中直継の養子になったとされる。やがて元服して良継と名のった。兼山という名は号であり、のちには高山とも名のった。家柄と才能の両方を見こまれ、若くして藩の政治の中心に近づいていくことになる。
養父の直継とともに藩の奉行に任命された。また、儒学者の谷時中のもとで朱子学を学び、土佐の儒学である南学の考えを政治で実践しようとした。同じ門下の後輩には山崎闇斎がおり、兼山はのちに寺を追われた闇斎をかばったと伝わる。
養父の直継が病気で亡くなり、野中家を継いだ。藩主の山内忠義は兼山に藩の政治の立て直しを命じた。兼山は堤防づくりや平野の開拓で米の生産を増やし、杉や檜などの森林を計画的に利用して藩の財源とした。木を切りすぎないよう順番に伐る仕組みも取り入れた。
物部川に山田堰を築く工事に取りかかった。川の流れに対して斜めに曲がった形の堰で、大量の松材と石が使われた。堰から引いた用水で新しい田が次々に開かれ、兼山の時代に開発された新田は7万5千石に達したともいう。工事は二十五年もの長い年月をかけて完成した。
手結港の工事に取りかかった。岩を掘りこんでつくる港で、日本で最初の掘り込み式の港とされる。室戸岬の近くには船が嵐を避けるための港も築いた。また和紙の原料となる楮の栽培や鰹節づくりを勧め、他国から人を招いて捕鯨の技も土佐に伝えさせた。
手結港が完成した。砂で港が埋まらないよう、細長い水路で内側の港と結び、長い堤を設ける工夫がされていた。このころ大坂から鯉や鯰、シラウオを取り寄せて川に放し、土佐に定着させようとした。初めて鯰を見た城下の人々が見物に集まったという逸話も残る。
前年に藩主忠義が隠居し、子の忠豊が藩主となったが、兼山は引き続き重く用いられた。この年には忠豊とともに江戸城で将軍徳川家綱に会う名誉を得た。しかし身分にとらわれず郷士を取り立てる政策や重い負担は、藩士や領民の不満を少しずつ積み上げていた。
米の値段を安定させるため、土佐藩で初めて米の公定価格を示す命令を出した。また、身寄りのない死者や病人も丁寧に葬らせるなど、儒学の考えにもとづいて人々の暮らしや習わしを変えようとした。一方で、工事での厳しい働かせ方は、人々に強い反発も生んだ。
兼山の政治に不満をもつ藩士たちが、藩主忠豊に兼山を訴える文書を出した。郷士を優遇して藩士の苦しみを顧みず、重い労役や専売制で農民や町人を苦しめたというのである。忠豊は親族の大名とも相談したうえで兼山を退け、兼山は役職を去った。
失脚した兼山は、思い入れの深い山田堰の工事場の近くに移り住み、まもなく病で亡くなった。家族は宿毛に移されて長く閉じこめられる厳しい処分を受けた。それでも人々はひそかに祠を建てて兼山をまつり、のちに春野神社となった。山田堰はこの年に完成したといわれる。
千姫徳川家光中江藤樹保科正之河村瑞賢熊沢蕃山天草四郎三井高利
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。