2代将軍徳川秀忠の子として生まれたが、母の身分などの事情から、ひそかに育てられた。武田信玄の娘・見性院が養育した。
信濃の高遠藩主・保科正光の養子となった。
養父の死により高遠藩主となった。異母兄の3代将軍家光は、のちに正之が弟と知って深く信頼した。
陸奥の会津23万石の藩主となった。
家光は亡くなる前に、幼い4代将軍家綱を支えるよう正之にたのんだ。正之は、跡継ぎのない大名が亡くなる直前に養子を取ることを認め、浪人が増えるのを防いだ。
江戸の人々の飲み水を確保するため、玉川上水の工事を進めた。
会津で、ききんに備えて米をたくわえる社倉の制度をつくった。年をとった人に米をあたえるなど、民を大切にする政治を行った。
江戸の大部分が焼ける大火事が起きた。焼けた江戸城の天守は建て直さず、そのお金を町の復興にあてた。
主君の死に家臣が後を追う殉死を禁じることを進めた。
会津藩の心がまえを記した家訓十五か条を定めた。将軍家への忠義を説くこの家訓は、幕末の会津藩の生き方にも大きな影響をあたえた。
江戸で亡くなった。幕府の政治を武力から学問や法による政治へと移す役割を果たした名君とされる。
松平信綱千姫徳川家光中江藤樹野中兼山河村瑞賢熊沢蕃山天草四郎
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。