京都の稲荷で、浪人の野尻一利と母亀の6人兄弟の長男として生まれた。幼名は左七郎。父は仕官先を求めて家を空けることが多く、暮らしは楽ではなかった。のちに蕃山は家族を養うために学問を中断することにもなる。
幼いころ、母方の祖父熊沢守久の養子となり、熊沢の姓を名のるようになった。祖父は近江の桐原に家を持っており、蕃山はのちに浪人となった時にもこの祖父の家に身を寄せている。母方の家が生活の支えだった。
丹後宮津藩主京極高広の紹介で、岡山藩主池田光政の児小姓として仕えることになった。光政は学問を好む名君として知られる大名で、この出会いがのちに蕃山が藩の政治に深く関わるきっかけとなった。
島原の乱が起こると、蕃山は出陣を願い出たが許されなかった。これを機にいったん池田家を離れ、近江の祖父の家に戻った。武士として手柄を立てる道を断たれた蕃山は、ここから学問に打ち込む道を探り始める。
近江の小川村に帰っていた陽明学者中江藤樹の門に入った。家族を養う必要があったため、藤樹のもとで学んだのは8か月ほどだったが、その後も手紙のやりとりで教えを受け続けた。心の正しさと実践を重んじる藤樹の教えが、蕃山の生き方を決めた。
再び京極氏の口添えで岡山藩に仕えた。陽明学に関心を持っていた光政は、藤樹の教えを受けた蕃山を重く用い、2年後には側役として300石を与えた。若い学者が、学問を政治に生かす機会を得たのである。
鉄砲組の番頭に進み、知行3000石の上級武士となった。この年、最初の著作『大和西銘』も出した。翌年には藩士たちが学ぶ「花園会」の規約を起草し、これがのちの岡山藩の藩学のもとになった。異例の出世は家老たちとの対立も生んだ。
備前の平野を大洪水が襲い、大飢饉となった。蕃山は光政を助けて飢えた人々の救済に力を尽くした。また山に木を植え川を治める工事を進めて災害を減らそうとし、のちに山川を治めることが国を治めるもとだと説いた。
狩りの最中に右の手足を痛めたことを理由に職を退き、岡山の城下を離れて知行地の寺口村に移り住んだ。このころから蕃山と名のった。家老との対立や、幕府内で陽明学が警戒されたことも背景にあったとみられる。
京に移り住んで公家たちと親しく交わり、源氏物語や雅楽を研究していたが、朝廷との結びつきを警戒した京都所司代によって京を追われ、吉野山に逃れた。2年後には明石藩主松平信之のもとに移されて太山寺に置かれ、著述に専念した。
問答の形で学問と政治の考えを述べた『集義和書』を刊行した。武士も農民も暮らしが成り立つことを重んじ、山や川を治めることの大切さを説いた。その中では、将軍は天下を治めても天皇の臣下にとどまるという考えも示している。
古河藩主松平忠之に迎えられて古河に移っていたが、政治への意見を記した『大学或問』が幕府の政治を批判したとされ、禁錮を命じられた。それでも藩主の配慮で領内を歩き、ため池づくりなどの指導を続けたと伝わる。
この年、病のため古河で亡くなった。遺体は藩主忠之によって儒教の礼で葬られた。蕃山の思想は幕末に再び注目され、藤田東湖や吉田松陰らが影響を受け、勝海舟は蕃山を「儒服を着た英雄」と評した。
中江藤樹保科正之野中兼山河村瑞賢天草四郎三井高利山鹿素行酒井忠清
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