三代将軍徳川家光の長男として江戸城本丸に生まれ、竹千代と名付けられた。なかなか男子に恵まれなかった家光は大いに喜び、生まれたときから自分の跡継ぎに決めていたという。家光自身が弟の忠長と跡継ぎを争った苦い経験も、その理由だったといわれる。
将軍家の跡継ぎの誕生を祝うため、朝鮮から朝鮮通信使が江戸を訪れた。通信使は将軍の代替わりの際に来るのが普通で、跡継ぎの誕生を祝って派遣されたのはこの時だけである。幼い竹千代は、生まれながらに国の内外から注目される存在だった。
元服して家綱と名乗った。幼いころ、島流しになった罪人が何を食べているのかと尋ね、誰も答えられないと「命を助けたのに、なぜ食べ物を与えないのか」と言ったと伝わる。家光は喜び、これを竹千代の初めての政治とせよと命じ、流人に食料が与えられるようになったという。
父家光が亡くなり、まだ十歳の家綱が江戸城で将軍宣下を受け、四代征夷大将軍となった。幼い将軍の誕生は、将軍職の世襲が揺るがないことを全国に示した。叔父の保科正之ら父の代からの重臣が支え、以後の将軍宣下は京都ではなく江戸で行われるようになった。
将軍就任の年、浪人の由井正雪らが幕府を倒そうとする慶安の変が発覚した。主家を失った浪人の増加が背景にあると考えた幕府は、跡継ぎのいない大名が死の間際に養子をとることを認め、取りつぶしを減らした。力で押さえつける政治を改める第一歩だった。
江戸の大半を焼き尽くす明暦の大火が起こり、江戸城の天守も焼け落ちた。幕府は焼けた武家屋敷や寺社の復興を資金で助け、隅田川に両国橋を架けて人々の逃げ道を確保した。天守は再建されず、その費用は町の復興に回されたと伝わり、江戸の町づくりの転機となった。
主君の死に従って家臣が自ら命を絶つ殉死を、武家諸法度の発布に合わせて禁じた。家綱の父家光が亡くなったときにも、多くの重臣が後を追っていた。命を粗末にする古い習わしをやめさせ、家臣は主君個人ではなく家に仕えるという考えを広める改革だった。
全国の一万石以上の大名に、将軍の名で領地を認める朱印状をいっせいに与え、翌年には公家や寺社にも領地の目録を渡した。これまで将軍ごとにばらばらだった領地の確認を一度に行ったもので、将軍と大名の主従関係が全国でそろって確かめられた。
保科正之ら父の代からの重臣が年老いて退くと、酒井忠清が大老となり、老中たちとの合議で政治が進められた。家綱はおだやかな性格で、家臣の案に「左様せい」と答えたことから「左様せい様」と呼ばれたと伝わる。ただし将軍の意向の重みを指摘する研究もある。
蝦夷地でアイヌの首長シャクシャインが、松前藩の不公平な交易などに反発して立ち上がった。松前藩は幕府の指示を受けて鎮圧し、アイヌへの支配はいっそう強まった。家綱の時代は国内が安定する一方、こうした周辺地域の対立や大名家のお家騒動も起きていた。
幕府の米を江戸へ運ぶため、商人の河村瑞賢に命じて東北から太平洋を回る東廻り航路を開かせ、翌年には日本海から瀬戸内を通って大坂へ向かう西廻り航路も整えた。各地の物資が大坂や江戸に集まりやすくなり、全国的な商業の発展を大きく後押しした。
イギリス船リターン号が長崎に来て貿易の再開を求めたが、幕府はイギリス王室がポルトガルと縁を結んでいることなどを理由に断った。中国の鄭氏政権からの援軍の求めにも応じず、父の代からの鎖国の方針を守った。また歴史書『本朝通鑑』の完成など文化事業も進んだ。
三十代半ばになっても男子がなく、跡継ぎが心配されていた。重い病に倒れると、堀田正俊の勧めで末の弟の松平綱吉を養子とし、その直後に亡くなった。絵を好み鶏の絵などを残した穏やかな将軍で、その死で将軍の直系の子が継ぐ形は途切れた。
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教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。