何をした人?
戦国時代から江戸時代前期の武将で、徳川家に仕えた旗本です。「大久保彦左衛門」の名で知られます。兄の大久保忠世とともに数々の戦いに出て、関ヶ原の戦いにも加わりました。晩年に徳川家と大久保一族の歩みを書いた『三河物語』を残し、のちに「天下のご意見番」として講談の主人公になりました。
| 名前 | 大久保忠教(彦左衛門) |
|---|---|
| 生没年 | 1560年(永禄3年) – 1639年(寛永16年) |
| 時代 | 戦国〜江戸時代 |
| 出身地 | 三河国 |
| 別名 | 大久保彦左衛門 |
| 主な業績 |
|
徳川家の家臣・大久保忠員の八男として、三河国の上和田(愛知県岡崎市)に生まれた。幼い名は平助。兄の忠世や忠佐も家康に仕えた武将で、大久保一族は古くから松平・徳川家を支えた家だった。通称の彦左衛門で広く知られる。
兄の忠世に従って遠江の武田方の城を攻め、犬居城の戦いで初陣を飾ったという。その後も兄たちの部隊に属して、武田氏との戦いなど各地を転戦した。のちに『三河物語』で、一族が命がけで徳川家に尽くした姿を書き残すことになる。
信濃の上田城を攻めた戦いに加わったが、徳川軍は真田昌幸の巧みな采配に翻弄され、大きな損害を出した。同じ年、家康の重臣だった石川数正が豊臣方へ去ると、兄の忠世とともに信濃の小諸城の守りを固めた。
小田原攻めののち家康が江戸へ移り、兄の忠世が小田原城主となると、忠教も3000石を与えられた。兄や甥の忠隣のもとで、大久保一族の一員として、徳川家の新しい関東の支配を支えた。
関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍に従った。秀忠の軍は中山道を進む途中、信濃の上田城で真田昌幸に再び足止めされ、決戦に間に合わなかった。忠教は二度にわたって真田氏の手ごわさを身をもって知ることになった。
このころ、『源氏物語』を題材にした絵巻物の詞書を書き写したと伝わる。戦場の勇ましい武将として知られる一方で、文字や文章にも深く親しんでいたことがわかる。こうした素養が、のちの『三河物語』の執筆にもつながった。
沼津城主だった兄の忠佐は、跡継ぎの息子を亡くしたため、忠教を養子にして家を継がせようとした。しかし忠教は「自分の手柄で得た領地ではない」と断ったと伝わる。忠佐が亡くなると、沼津の大久保家は取りつぶしとなった。
甥の大久保忠隣が幕府内の争いに敗れて改易されると、忠教も連座して領地を失った。しかし家康に旗本として召し出され、三河に1000石を与えられて復帰した。同じ年の大坂の陣には槍奉行として加わり、豊臣方と戦った。
3代将軍家光の時代には、戦のときに軍の旗を預かる旗奉行を務め、このころ1000石を加えられた。戦国の世を知る数少ない老臣として重んじられた。ただし将軍に遠慮なく意見したという「天下のご意見番」の話の多くは、のちの講談の創作とされる。
このころ『三河物語』の執筆を進めたとされる。徳川家と大久保一族の歩みを、自分の体験もまじえて子孫のために書いたもので、長く仕えた家臣が報われないことへの不満も率直に記されている。戦国時代を知る貴重な記録として今も読まれている。
江戸で亡くなった。晩年、幕府から大きな加増の話があったが断ったとも伝わる。浪人たちの世話をよくしたといわれ、のちに魚屋の一心太助と組む「天下のご意見番」として講談や芝居で親しまれる人気者になった。
A. 戦国時代から江戸時代前期の武将で、徳川家に仕えた旗本です。「大久保彦左衛門」の名で知られます。兄の大久保忠世とともに数々の戦いに出て、関ヶ原の戦いにも加わりました。晩年に徳川家と大久保一族の歩みを書いた『三河物語』を残し、のちに「天下のご意見番」として講談の主人公になりました。
A. 戦国〜江戸時代の人物です。1560年(永禄3年)に生まれ、1639年(寛永16年)に亡くなりました。
A. 大久保忠教(彦左衛門)は三河国の生まれです。
A. 大久保忠教が晩年に書いた、徳川家の始まりから家康の時代までと、大久保一族の働きを記した本です。子孫に家の歩みと主君への忠義を伝えるために書いたとされ、戦国時代の三河武士の考え方を知る大切な史料になっています。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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