山形県の金瓶村で、農家の三男として生まれた。家には上の学校へ進ませるだけの余裕がなく、少年時代には画家になるか寺に弟子入りしようかと考えたこともあったという。のちに故郷の山や川、母の姿は、彼の歌の大切な題材となっていった。
同郷で東京の浅草に医院を開いていた医師の斎藤紀一に招かれ、医者を目指して上京し、斎藤家に身を寄せて中学校に入った。途中の宿で初めて菓子のもなかを食べて驚き、夜の上野駅ではその明るさに目を見張ったという。新しい世界での暮らしが始まった。
正岡子規の遺した歌集『竹の里歌』を読み、自分の歌の師を見出したと感じた。中学のころから同級生に刺激されて歌を詠み、幸田露伴などの作品を愛読していた。この年、第一高等学校を卒業して東京帝国大学の医科に入り、斎藤家の婿養子として籍を入れた。
子規の弟子であった歌人の伊藤左千夫の門下に入った。左千夫のもとで、ありのままを見つめて歌う子規の流れをくむ歌づくりを学び、古泉千樫ら同じ道を目指す仲間とも知り合った。医学を学ぶ学生でありながら、歌人としての歩みもここから本格的に始まった。
大学を卒業して精神医学を学び、東京の巣鴨病院で患者の診療にあたる生活が始まった。数年前に創刊された短歌の雑誌『アララギ』に歌を発表してきたが、この年からその編集も担った。同じアララギの歌人である島木赤彦とも知り合い、のちに雑誌を支える仲間となった。
故郷の母が亡くなり、その最期を見守った思いを連作「死にたまふ母」に詠んだ。同じ年には師の伊藤左千夫も世を去った。秋に最初の歌集『赤光』を出すと、歌の世界だけでなく文学の世界全体に大きな反響を巻き起こし、一躍その名を知られるようになった。
養父である斎藤紀一の娘、輝子と結婚した。紀一は早くから彼の才能を見抜いており、娘に「変わっているが、きっと偉くなる」と語っていたという。二年後には長男の茂太が生まれた。のちには次男も生まれ、この子はのちに作家の北杜夫となる。
大学や病院の職をすべて辞めて、長崎医学専門学校の精神病科の教授となった。長崎では、歌の理論をまとめた本を出したほか、旅で訪れた作家の芥川龍之介と知り合い、親しく交わった。しかし体をこわして血を吐き、療養のために九州の各地を転々とする時期もあった。
精神医学を研究するためヨーロッパへ渡り、ウィーンの大学の研究所で学んだあと、この年ミュンヘンの大学に移った。動物の脳を顕微鏡で調べて写し取る、根気のいる研究の日々を送った。ミュンヘンでは、のちのドイツの独裁者ヒトラーらが起こした反乱にも出くわし、その様子を歌に詠んでいる。
医学博士の学位を得て帰国の途についたが、その船の上で、斎藤家の青山脳病院が全焼したという電報を受け取った。翌年はじめに帰ると、ヨーロッパで買い集めて送ったたくさんの本も焼けてしまっていた。悲しみをこらえながら、病院の再建のために走り回ることになった。
養父の紀一が引退し、青山脳病院の院長を継いだ。この年の夏には親しかった芥川龍之介が亡くなり、大きな衝撃を受けた。翌年に紀一が亡くなると、病院の経営はすべて彼の肩にかかった。医師として病院を支えながら、アララギの中心として歌を詠み続けた。
長年取り組んできた、万葉集の歌人である柿本人麿の研究が認められ、帝国学士院賞を受けた。研究のために山陰や四国、大和などをたびたび実際に訪ね歩き、最終的に大作にまとめあげたものであった。歌人としてだけでなく、古典の研究者としても高く評価された。
戦争の悪化で病院の経営が難しくなり、病院を東京都に譲って院長を辞めた。春に故郷の金瓶へ疎開し、その後東京の病院と自宅は空襲で焼けてしまった。翌年からは山形の大石田に移り住み、雄大な最上川のほとりで詠んだ歌は、のちに歌集『白き山』にまとめられた。
東京に戻ってからも新しい歌集を次々に出し、新聞の歌の欄の選者なども務めた。こうした長年の功績によって文化勲章を受けた。若い日の歌から戦後の歌まで、生涯に詠んだ歌は非常に多く、近代の短歌を代表する歌人として広く認められるようになっていた。
晩年は体の衰えとともに歌を作る力も弱まっていき、東京の自宅で心臓の病気のため亡くなった。戒名は自ら用意していたものであったという。歌人として、また精神科医として生きた彼の家からは、随筆家となった長男の茂太、作家となった次男の北杜夫が出て、ともに広く親しまれた。
永井荷風河上肇野口雨情鈴木三重吉志賀直哉竹久夢二北原白秋武者小路実篤
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。