江戸の下谷で、幕府に仕える家の四男として生まれた。兄の郡司成忠はのちに千島の探検で知られる海軍軍人、妹の幸田延と安藤幸は音楽家になるなど、才能ある兄弟姉妹が多かった。
このころ、家が苦しく学校を中退したが、湯島聖堂にあった図書館に通い、漢籍や仏教の書物、江戸時代の小説を手当たりしだいに読んだ。この読書が露伴の広い知識のもとになった。
電信の技術を学ぶ学校を出て、電信技手として北海道の余市に赴任した。このころ坪内逍遥の『小説神髄』などを読んで、文学への思いをつのらせていったと伝わる。
文学への思いをおさえきれず、職を捨てて東京へ向かった。お金がなく、野宿をしながら歩いた旅の記録は、のちに『突貫紀行』として発表された。「露伴」の号は、この旅で詠んだ句にちなむと伝わる。
小説『風流仏』で一躍注目された。仏像を彫る若い職人が、恋する女性の像を彫りあげる物語で、理想を追い求める人の姿を力強い文章で描いた。
代表作『五重塔』を発表した。不器用な大工・十兵衛が、命をかけて五重の塔を建てる姿を描いた作品で、職人の誇りと情熱が多くの読者の心をつかんだ。
このころ、尾崎紅葉と並ぶ人気作家となり、二人の名を取って「紅露時代」と呼ばれた。紅葉の華やかで写実的な作風に対し、露伴は男らしく理想を追う作風で知られた。
次女の文が生まれた。このころ連載していた長編『天うつ浪』は未完に終わった。文はのちに父の思い出を書いた随筆で作家となった。
京都帝国大学に招かれ、国文学の講師として教壇に立った。大学を出ていないのに招かれたことは、露伴の学識の深さを示していたが、1年ほどで辞めて東京に戻った。
文学博士の学位を受けた。このころから小説よりも、歴史上の人物を描く史伝や、物事を調べる考証、随筆に力を注ぐようになった。
中国・明の時代の帝位争いを描いた史伝『運命』を発表し、格調の高い文章で高く評価された。のちには松尾芭蕉の俳諧の評釈にも長く取り組んだ。
第1回の文化勲章を受けた。明治から昭和まで文学の第一線で活躍し続けた露伴は、文学界の重鎮として尊敬を集めた。
太平洋戦争の末に疎開したのち、千葉県市川の家で亡くなった。娘の幸田文が、その最期の日々を随筆『終焉』などに書き残している。
黒田清輝夏目漱石正岡子規豊田佐吉尾崎紅葉横山大観秋山真之北村透谷
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。