山口県の岩国で、もとの岩国藩士の家に生まれた。祖母にたいへんかわいがられ、わがままに育ったという。母は彼を身ごもっていたころに家を離れており、複雑な家庭に育った。のちに書いた『自叙伝』では、こうした幼い日々のことも率直につづられている。
山口の高等学校を卒業し、東京帝国大学の政治科に入った。このとき東京で、故郷では見られなかった貧しい人と豊かな人の大きな差を目にして、強い衝撃を受けた。またキリスト教の思想家である内村鑑三からも大きな影響を受け、人の生き方について深く悩むようになった。
足尾銅山の鉱毒の被害を訴える田中正造らの演説会に参加して深く心を動かされ、その場で着ていた外套や羽織、襟巻きまで寄付した。この行いは新聞で「特志な大学生」として報じられた。人の苦しみを見過ごせない、まっすぐな性格がよく表れた出来事である。
東京帝国大学を卒業し、同じ年にヒデと結婚した。経済学の雑誌に論文を投稿するようになり、経済学によって人々の幸福に貢献しようと考えるようになった。翌年には大学の講師となり、ほかの学校の講師も兼ねながら、新聞に経済の記事も書いた。
悩んだ末に教職をすべて辞め、無我の愛を説く伊藤証信の「無我苑」での共同生活に入った。しかしわずか二か月ほどで抜け出し、新聞社に入った。理想を求めて思い切った行動に出る一方、納得できなければ引き返すという、彼らしい生き方がうかがえる。
経済学者の田島錦治に招かれて京都帝国大学の講師となり、以後は研究に打ちこむ生活を送った。数年後には、それまでの研究をまとめた論文集『経済学研究』を書き上げた。京都での研究生活は、のちに彼が日本を代表する経済学者となる出発点となった。
二年間のヨーロッパ留学に出かけた。留学中には法学博士の学位を授けられ、帰国すると京都帝国大学の教授となった。ヨーロッパの国々で見た社会のありさまは、豊かな国にも多くの貧しい人々がいるという問題を、改めて彼に考えさせることになった。
新聞に『貧乏物語』を連載し、翌年本にまとめた。貧困を経済学の立場から論じたこの本は、大正デモクラシーの風潮の中でよく売れた。貧乏をなくすには金持ちがぜいたくをやめることだと説いたが、生涯のライバルとされる経済学者の福田徳三らから、現実的でないと厳しく批判された。
個人で編集する雑誌『社会問題研究』を創刊し、十年以上にわたって刊行を続けた。翌年には京都帝国大学の経済学部長となった。このころからマルクス主義の経済学に深く傾き、研究を進めていった。その講義は学生たちに大きな影響を与えたという。
経済学者の櫛田民蔵から、河上のマルクス主義の理解は間違っていると厳しく批判された。河上はその批判が的を射ていることを認め、かえって奮い立って、マルクス主義を根本から学び直した。『資本論』などの翻訳を進め、自らの考えを改めた過程を雑誌で発表した。
大学から辞職を迫られ、京都帝国大学を辞めた。広告用の冊子に書いた短い文や選挙での演説、学生の研究会から問題を起こす者が出たことなどが理由とされた。経済学部の学生たちは反対の集会を開いたが、流れを変えることはできなかった。
大学を去ったのち『資本論』の翻訳に打ちこみながら、ひそかに共産党へ資金を寄付するようになり、この年、自ら日本共産党に入党した。身を隠して地下の活動に加わり、機関紙の編集を助けたり、党の方針を記した文書を翻訳したりした。理想のために全てを投げ打つ決断であった。
潜んでいた東京の家で警察に捕らえられ、治安維持法違反の罪で懲役五年の判決を受けて刑務所に入れられた。獄中では共産党での活動の敗北を認める声明を出し、世の中に大きな衝撃を与えた。また獄中で漢詩に親しみ、自ら詩を作り、中国の詩人陸游の詩を味わった。
刑期を減らされて出獄した。その日、家族に書き取らせた手記で、マルクス学者としての生涯を閉じると発表した。その後は自分の生涯をつづる自叙伝などの執筆を続け、のちに京都に移り住んだ。漢詩の研究の成果も、陸游の詩を味わう本としてまとめられた。
戦争が終わり、再び活動に戻るつもりでいたが、体の衰えと栄養不足に肺炎が重なり、京都の自宅で亡くなった。翌年に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。すぐれた文章の書き手としても、漢詩の作者としても知られ、その生き方は今も多くの人の関心を集めている。
上村松園吉野作造有島武郎永井荷風野口雨情鈴木三重吉斎藤茂吉志賀直哉
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。