何をした人?
明治から昭和初期の日本画家で、戦前の京都画壇の中心人物です。京都の料理屋に生まれ、幸野楳嶺に学びました。ヨーロッパで西洋の絵を見て学んだことを日本画に取り入れ、動物を生き生きと描く新しい表現を切り開きました。《班猫》などの作品で知られ、第1回の文化勲章を受けました。
| 名前 | 竹内栖鳳 |
|---|---|
| 生没年 | 1864年(元治元年) – 1942年(昭和17年) |
| 時代 | 明治〜昭和時代 |
| 出身地 | 京都 |
| 主な業績 |
|
京都の御池油小路にあった料理屋「亀政」の長男として生まれた。本名は恒吉。幼いころ、店の常連だった友禅の絵師が短冊に墨でかきつばたを描くのを見て、すっかり心を奪われたと伝わる。これが絵の道への最初の一歩となった。
この年に母を亡くした。父は家業を継がせたがっていたが、絵への思いはおさえられず、そのころ近所に住む四条派の絵師・土田英林に絵を習い始めた。十歳年上の姉の琴は、のちに店を守りながら弟の画業を支え続けた。
円山・四条派の幸野楳嶺の塾に入り、竹内の姓にちなんで「棲鳳」の号を授けられた。鳳凰は竹の実を食べるとされたからである。入門から半年で先輩を飛びこえて重い役に抜てきされ、のちに楳嶺門下の四天王の一人に数えられた。
京都府画学校での学びを終え、結婚を機に絵師として独立した。高島屋の意匠部で呉服の下絵を描いて暮らしを立てながら腕を磨いた。師の楳嶺が説いた「画家にとって写生帖は武士の刀と同じ」という教えを守り、動物を細かく写生した。
展覧会に出した猫の絵で賞を受けたが、さまざまな流派の描き方を取り入れたその画風は、頭は猿で体は狸という妖怪にたとえて「鵺派」と呼ばれ、厳しく批判された。それでもひるまず、新しい表現を求めて出品と受賞を重ねていった。
師の楳嶺が亡くなると、そのあとを継いで京都市立工芸学校の先生となった。このとき同じ学校には横山大観も勤めていた。楳嶺の弟子だった上村松園も栖鳳のもとに加わり、のちに画塾は竹杖会と呼ばれて多くの画家が集まった。
パリ万国博覧会の視察のためヨーロッパに渡り、出品した雀の絵は銀の賞を受けた。ロンドンやローマなど各地をめぐり、ターナーやコローの絵を実際に見て強い影響を受けた。西洋の写実を日本画に生かす道を考えるようになった。
帰国して、ヨーロッパで見たライオンを描いた《獅子》を展覧会に出し、一等の金牌を受けた。このときから号の字を「棲鳳」から「栖鳳」に改めた。西洋で学んだことを生かした作品で、新しい日本画の旗手として注目された。
国が開く展覧会の文展が始まると審査員に選ばれ、その後十年あまり務めた。二年後には京都市立絵画専門学校の先生となり、土田麦僊・小野竹喬・村上華岳ら、のちに京都の日本画を引っぱる若い画家たちを育てた。
皇室が優れた芸術家を選ぶ帝室技芸員に選ばれ、名実ともに京都画壇の第一人者となった。同じ年に文展に出した《絵になる最初》は、モデルの女性が恥じらう一瞬をとらえた作品で、のちに重要文化財に指定された。
まだら模様の猫が体をなめながらふり返る姿を描いた《班猫》を発表した。旅先で見かけた猫を気に入り、ゆずり受けて写生したと伝わる。毛の一本一本まで感じさせる描写で、のちに重要文化財となった代表作である。
新しくつくられた文化勲章の最初の受章者の一人に選ばれた。在野の横山大観と並び「西の栖鳳、東の大観」と呼ばれた。体をこわしてからは湯河原を拠点とし、少ない筆数で姿をとらえる省筆という境地に達した。
静養と制作の場としていた湯河原の旅館で、肺炎のため亡くなった。上村松園をはじめ、彼のもとから育った多くの画家が近代の京都画壇を支えた。動物の匂いまで描くと言われた写生の力は、今も多くの人をひきつけている。
A. 明治から昭和初期の日本画家で、戦前の京都画壇の中心人物です。京都の料理屋に生まれ、幸野楳嶺に学びました。ヨーロッパで西洋の絵を見て学んだことを日本画に取り入れ、動物を生き生きと描く新しい表現を切り開きました。《班猫》などの作品で知られ、第1回の文化勲章を受けました。
A. 明治〜昭和時代の人物です。1864年(元治元年)に生まれ、1942年(昭和17年)に亡くなりました。
A. 竹内栖鳳は京都の生まれです。
A. 1924年に描かれた、体をなめようと振り返る一匹の猫の絵です。静岡県の沼津で見かけた猫にひかれ、ゆずってもらって京都に連れ帰り、よく観察して描いたと伝わります。毛の柔らかさや緑色の目まで細かく表された代表作で、重要文化財になっています。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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