京都の四条御幸町にあった葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれた。本名は津禰。父は松園が生まれる前に亡くなり、母の仲子が女手一つで店を切り盛りしながら二人の娘を育てた。幼い松園は、店先で絵を描くのが大好きだったと伝わる。
京都府画学校に入学し、鈴木松年に絵を学んだ。翌年には学校をやめて松年の画塾に入り、本格的な修業を始めた。「松園」の号は、師の松年から一字をもらったものである。当時、女性が画家をめざすことは珍しく、まわりから冷たい目で見られることもあった。
第3回内国勧業博覧会に出した「四季美人図」が一等褒状を受け、来日していたイギリスのコンノート公が買い上げて話題となった。まだ十代半ばの少女の作品が大きな評価を受けたことで、松園の名は一気に知られるようになった。
さらに腕をみがくため、京都画壇の重鎮・幸野楳嶺の塾に入った。楳嶺は多くの弟子を育てた教育者で、写生と古い絵の研究を重んじた。松園はここで、人物の姿を正確にとらえる力と、古典の美しさを学んでいった。
楳嶺が亡くなると、その弟子で京都画壇の新しい中心となった竹内栖鳳に学んだ。栖鳳は西洋の写実も取り入れた新しい日本画を切り開いた画家で、松園は栖鳳のもとで、伝統を大切にしながら新しさを求める姿勢を身につけた。
結婚しないまま長男の信太郎を産んだ。当時、未婚の母として生きることは世間から厳しい目を向けられることだったが、松園は母の仲子の支えを受けながら、絵を描き続けて子を育てた。この子がのちの日本画家・上村松篁である。
文展に「花がたみ」を出した。能の物語をもとに、恋しい人を思うあまり心が乱れた女性を描いたこの作品のため、松園は精神病院を訪ねて人々の表情を観察したと伝わる。美しさの中に人の心の深さを描こうとする姿勢が表れている。
能の『葵上』に登場する六条御息所をもとに、嫉妬に苦しむ女性の姿を描いた「焔」を発表した。美人画の画家として知られた松園の作品の中で、ただ一つといわれるほど激しい情念を描いた絵である。このころ松園は、私生活でも深い苦しみの中にあったと伝わる。
自分をずっと支えてくれた母の仲子が亡くなった。深い悲しみの中で、母と子の姿を描いた「母子」を発表した。松園はのちに、母がいたからこそ自分は絵の道を歩み続けられたと書き残しており、母への思いは晩年の作品にも表れている。
代表作「序の舞」を発表した。能の舞を舞いはじめる若い女性の、凛とした姿を描いたもので、松園の理想とする女性の美しさが表されている。この絵はのちに、女性画家の作品として初めて国の重要文化財に指定された。
自らの生い立ちや絵への思いをつづった随筆集『青眉抄』を出版した。その中で、一点の卑しさもなく、清らかで香り高い、珠玉のような絵を描くことが自分の願いだと書いている。この言葉は、松園の絵を語るときによく引かれている。
女性として初めて文化勲章を受けた。女性が画家として生きることが難しかった時代に、一生をかけて絵の道を歩み続けた松園の努力と作品が、国によって高く評価されたことを示す出来事だった。
奈良の平城にあった住まいで亡くなった。息子の松篁、孫の淳之も日本画家となり、上村家は三代続く画家の家となった。凛とした美しい女性を描き続けた松園の作品は、今も多くの人に愛されている。
泉鏡花美濃部達吉鈴木梅太郎柳田国男吉野作造有島武郎永井荷風河上肇
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