広島の城下で、広島藩士の加藤七郎兵衛の三男として生まれた。父は禄の少ない下級武士だったが、学識があり藩校で教える人物だった。幼いころから藩校の修道館で学び、学問を大切にする家の空気のなかで育った。のちの冷静な判断力の土台がここにあった。
海軍の士官を育てる海軍兵学寮、のちの海軍兵学校に入学した。明治の新しい国づくりのなかで、海を守る海軍は大切な役目を担っていた。厳しい訓練と学びの日々を重ね、のちに日本の海軍を背負って立つ人物へと成長していくことになる。
海軍兵学校を、首席の島村速雄に次ぐ二番の成績で卒業した。島村はのちに海軍の重要な地位を占める人物で、二人は同じ時代の海軍を支える仲間となった。さらに数年後には、海軍の上級の将校を育てる海軍大学校の最初の学生にも選ばれた。
日清戦争では巡洋艦吉野の砲術長として加わり、清の大きな戦艦である定遠や鎮遠などと戦った黄海の海戦で活躍した。大砲を受け持つ責任者として、実際の海戦の厳しさを身をもって知った。この経験は、のちに海軍の中心で働くうえでの大きな糧となった。
日露戦争では連合艦隊の参謀長となり、日本海海戦に臨んだ。司令長官の東郷平八郎、参謀の秋山真之とともに戦艦三笠の艦橋に立ち、弾が飛び交うなかでも安全な場所に入らず、兵士たちを励まし続けたという。この戦いで日本の海軍は大勝した。
戦争の後、海軍の次官となり、海軍省で組織の運営に当たった。その後は呉の鎮守府の司令長官や第一艦隊の司令長官を務め、海軍の要となる地位を歩んだ。戦場の指揮と役所の仕事の両方を知る人物として、周りから厚い信頼を寄せられた。
第二次大隈内閣で海軍大臣となり、海軍大将に昇進した。その後も寺内正毅、原敬、高橋是清の内閣で続けて海軍大臣を務め、八年近くにわたって海軍を率いた。大きな艦隊をそろえる計画を進める一方で、国の財政とのつり合いにも心を配った。
ワシントン会議に日本の首席全権として出席した。やせた体から各国の記者にロウソクとからかわれたが、アメリカが出した軍艦の比率の案を受け入れ、軍縮に前向きな姿勢を示した。そのため一転して、危機の世界を照らす偉大なロウソクとたたえられたという。
内閣総理大臣となり、自ら率いる内閣を組んだ。ワシントン会議の取り決めに沿って海軍の軍縮を進め、陸軍の軍縮にも道をつけた。また長く続いていたシベリア出兵を終わらせ、兵を引き揚げさせた。軍人出身ながら、軍備を減らす方向へ国を導いた。
首相の在任中に重い病が悪化し、東京の自宅で満六十二歳で亡くなった。その八日後に関東大震災が起こり、日本は首相のいない状態でこの大きな災害を迎えることになった。死後に元帥とされ、故郷の広島には今もその銅像が立っている。
犬養毅原敬尾崎行雄加藤高明牧野富太郎長岡半太郎南方熊楠西田幾多郎
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