何をした人?
明治から昭和初期の物理学者で、随筆家です。熊本の第五高等学校で夏目漱石に学び、東京帝国大学の教授としてX線の研究などで知られました。身近な現象を科学の目で見つめた随筆を多く書き、「天災は忘れたころにやってくる」という言葉の元になった人物とされます。
| 名前 | 寺田寅彦 |
|---|---|
| 生没年 | 1878年(明治11年) – 1935年(昭和10年) |
| 時代 | 明治〜昭和時代 |
| 出身地 | 東京 |
| 別名 | 吉村冬彦 |
| 主な業績 |
|
東京で、高知の士族寺田利正の長男として生まれた。寅年の寅の日に生まれたことから寅彦と名づけられた。幼いころ、父が熊本へ単身で赴任したため、祖母や母、姉とともに故郷の高知へ移った。高知の自然の中で育った経験は、のちの随筆にもよく描かれている。
体が弱く、学校を休んだこともあったが、本や雑誌を夢中で読む少年だった。父が東京の博覧会から幻灯機を買ってきたり、寅彦のために顕微鏡を買ってくれたりしたことで、見えないものを見る科学の楽しさにふれた。中学校では自由にのびのびと学んだ。
熊本の第五高等学校に入学した。初めは父の希望で造船を学んだが合わず、物理に移った。ここで英語教師の夏目漱石と物理教師の田丸卓郎に出会い、二人を生涯の師とあおいだ。漱石を中心とした俳句の会にも加わり、科学と文学の両方を志すようになった。
在学中に、阪井夏子と結婚した。若い夫婦は、のちに東京で新しい暮らしを始め、長女も生まれた。しかし夏子は病気のため数年後に若くして亡くなり、寅彦は深い悲しみを味わった。妻との日々の思い出は、のちに随筆の中で静かに語られている。
上京して東京帝国大学に入学し、田中館愛橘や長岡半太郎から物理学を学んだ。首席で卒業すると大学院に進み、実験物理学の研究を続けた。漱石の家にもよく通い、のちに漱石の小説『吾輩は猫である』に登場する若い学者のモデルになったといわれる。
大学の講師となり、日本の楽器尺八の音のしくみを物理学で調べた研究で理学博士となった。身近なものに目を向け、そこにひそむ物理の法則を探るという寅彦らしい研究の姿勢は、このころから表れていた。翌年には大学の助教授となった。
地球物理学を学ぶため、ドイツのベルリン大学に留学した。スウェーデンでは化学者アレニウスと会い、ゲッティンゲン大学でも学んだ。その後パリやイギリス、アメリカを回って帰国した。欧米の研究の最前線を見た経験は、帰国後の研究と教育に生かされた。
ドイツのラウエが結晶にX線を当てる実験に成功したことに刺激され、自分でもX線の実験を行い、その結果をイギリスの科学雑誌『ネイチャー』に発表した。結晶の中の原子の並びを調べる研究の、世界でも非常に早いものの一つだった。
前年に東京帝国大学の教授となり、X線の研究によって帝国学士院恩賜賞を受けた。研究者としての名声が高まる一方、同じ年に二人目の妻を病気で亡くし、自らも胃の病に苦しむようになった。悲しみと病の中でも、身近な現象の研究を続けた。
病気で大学を休み、家で療養する間に、文学の才能が大きく花開いた。吉村冬彦という筆名で、科学者の目と文学の心をあわせた随筆を雑誌に次々と発表した。のちに『冬彦集』などの随筆集にまとめられ、多くの読者に親しまれた。
関東大震災が起こると、本郷の自宅は無事だったが、すぐに調査団に加わって、火災の広がりなどを調べた。自然の災害と人間の社会の関係を深く考え、のちに随筆でも防災の大切さを説いた。「天災は忘れたころにやってくる」は寅彦の言葉として知られる。
健康を取りもどし、理化学研究所の研究員を兼ねるようになった。のちには大学を事実上離れ、研究所での研究を中心とした。金平糖の角のでき方やひび割れの形など、身近な現象を物理で解き明かす研究は「寺田物理学」と呼ばれ、多くの弟子が集まった。
震災をきっかけにつくられた東京帝国大学の地震研究所の所員も兼ねた。地震や火事など災害の研究にも力を入れ、科学の知識を社会に役立てようとした。教えを受けた中谷宇吉郎ら弟子たちは、のちに科学者としても随筆家としても活躍した。
東京の自宅で病気のため亡くなった。物理学者として新しい分野を切り開く一方、随筆家として科学の目で見た世界の面白さを多くの人に伝えた。科学と文学の橋渡しをした人として今も読みつがれ、ふるさと高知には彼の名を冠した賞もつくられている。
A. 明治から昭和初期の物理学者で、随筆家です。熊本の第五高等学校で夏目漱石に学び、東京帝国大学の教授としてX線の研究などで知られました。身近な現象を科学の目で見つめた随筆を多く書き、「天災は忘れたころにやってくる」という言葉の元になった人物とされます。
A. 明治〜昭和時代の人物です。1878年(明治11年)に生まれ、1935年(昭和10年)に亡くなりました。
A. 寺田寅彦は東京の生まれです。
A. 寅彦の書いた文章にこの形のままの言葉は見つかっていませんが、寅彦が日ごろ口にしていた考えを、弟子の中谷宇吉郎らが伝えたものとされています。災害への備えを忘れてはいけないという寅彦の考えをよく表した言葉として知られます。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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