日本史人生シミュレーター

寺内正毅

陸軍大臣、初代朝鮮総督を経て首相となった長州出身の軍人
時代:明治〜大正時代 / 1852年〜1919年(67歳ほど)
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歩んだ道

1852年

長州の武士の子

周防の吉敷郡平井村で、長州藩士の宇多田正輔の三男として生まれ、寿三郎と名付けられた。のちに母の弟である寺内家の跡継ぎとなり、寺内の姓を名乗った。幕末の長州は激しい争いの中心にあり、少年は早くから戦いの世界に身を置くことになる。

1864年

諸隊に加わる

長州藩の奇兵隊などの諸隊のうち、武士を中心につくられた隊に入った。のちに別の隊に移り、西洋式の銃の扱いや国学を学んだ。まだ十代前半の少年だったが、藩をあげて幕府と対立する時代の流れのなかで、兵士としての訓練を積んでいった。

1866年

初めての戦場

幕府が長州を攻めた戦いに従い、安芸との境にある小瀬川口の守りに加わった。まだ少年といえる年での初めての戦場だった。この後も戊辰戦争に加わって各地を転戦し、さらに北海道での箱館戦争にも従軍して、新政府軍の一員として戦い抜いた。

1873年

士官を目指す

京都でフランス式の軍学を学んで下士官となり、大尉に昇進した。フランスへの留学を望んで語学を学んだが、その機会はすぐには訪れなかった。この年、士官を育てる陸軍戸山学校に入り、卒業後は新しくできた陸軍士官学校で生徒を指導する役目に就いた。

1877年

田原坂で負傷

西南戦争が起こると前線で戦うことを自ら願い出て、最大の激戦とされる田原坂の戦いに加わった。ここで銃弾を受けて右手が不自由になり、その後は戦場で直接指揮をとることはなくなった。以後は軍の組織づくりや教育の道を歩むことになった。

1882年

フランスへ

皇族の閑院宮載仁親王に付き添ってフランスへ渡り、翌年からは駐在武官として数年間フランスにとどまった。若いころからの願いだったフランス留学がようやくかない、ヨーロッパの軍の仕組みを学んだ。帰国後は陸軍士官学校の校長などを務めた。

1894年

戦争を支える輸送

日清戦争では、兵士や物資を運び、連絡を保つ輸送と通信の責任者を務めた。前線で戦うのではなく、軍を後ろから支える仕事で力を発揮した。その後は教育総監や参謀本部の次長を務め、中国で義和団事件が起きた際には現地へ赴いた。

1901年

陸軍大臣として

第一次桂内閣で陸軍大臣となり、日露戦争の時期を通じて陸軍の運営に当たり、勝利に貢献したとされる。その後の内閣でも続けて陸軍大臣を務め、長州出身の軍人として山県有朋の流れをくむ有力者となった。戦争の功績により子爵となった。

1910年

初代の朝鮮総督

伊藤博文が殺害された後、陸軍大臣のまま韓国統監を兼ね、この年の韓国併合とともに初代の朝鮮総督となった。軍の警察が一般の警察も兼ねる仕組みをつくって治安を保とうとし、その強い力による統治は、のちに武断政治と呼ばれて批判されている。

1916年

ビリケン内閣

元帥となり、朝鮮総督を辞めて内閣総理大臣に就いた。頭の形が当時はやっていたビリケン人形に似ていたことと、政党に頼らない非立憲な内閣だという皮肉をかけて、ビリケン内閣と呼ばれた。第一次世界大戦のさなかの政権だった。

1918年

米騒動と退陣

ロシアの革命に干渉するシベリア出兵を宣言した。同じころ、米の値段が急に上がって全国で米騒動が広がり、その責任をとって内閣は総辞職した。後を継いだのは政党を率いる原敬で、本格的な政党内閣の時代が始まることになった。

1919年

最期

首相の終わりのころからすでに病気がちで、心臓や糖尿病の悪化のため、満六十七歳で亡くなった。葬儀には首相の原敬らが参列した。故郷の山口には、朝鮮に関する書物などを集めた私設の図書館をつくり、その本は今も大学に受け継がれている。

この時代に起きたこと

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関係する人物

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