何をした人?
江戸時代後期の旗本で、江戸の北町奉行・南町奉行をつとめました。通称は金四郎です。若いころ町で自由な暮らしを送ったと伝わり、町奉行としては天保の改革の厳しすぎる取り締まりに異をとなえ、町人の暮らしを守ろうとしました。死後、「遠山の金さん」として講談や時代劇の主人公になりました。
| 名前 | 遠山景元 |
|---|---|
| 生没年 | 1793年(寛政5年) – 1855年(安政2年) |
| 時代 | 江戸時代 |
| 出身地 | 江戸 |
| 別名 | 遠山金四郎 |
| 主な業績 |
|
知行五百石の旗本、遠山家に生まれた。幼い名は通之進。父の景晋は長崎奉行などを務めたすぐれた役人だった。しかし父は養子として家に入っており、養父の実子景善を跡継ぎとしていたため、景元の立場は複雑で、生まれた届け出も翌年になってから出された。
父と同じ金四郎という名を名のるようになった。複雑な家の事情から家を出て、町家で遊び暮らした時期があったとされる。このころ体に彫り物を入れたといわれ、のちに「桜吹雪」の話が生まれたが、彫り物の有無や図柄には諸説あり、確かな記録はない。
家に戻り、四千石あまりの旗本堀田家の娘けいと結婚した。五百石の遠山家とはつりあわない縁組だったが、当時父の景晋は長崎奉行を務めており、堀田家は景元の将来に期待したのだろうと考えられている。のちに夫婦は多くの子どもに恵まれた。
跡継ぎだった景善が亡くなったため、翌年、幕府に仕え始めた。江戸城西丸の小納戸として、将軍の跡継ぎだった徳川家慶の身の回りの世話を務めた。ここで家慶に人柄と働きぶりを知られたことが、のちの出世と、改革の中で身を守る力につながった。
父の景晋が隠居し、遠山家の家督と五百石の知行地を受け継いだ。その後は小納戸頭取、小普請奉行、作事奉行と、城の仕事や建物の工事を担う役を順に務めて、着実に経験を積んだ。役人としての手腕は、幕府の中で次第に認められていった。
幕府の勘定奉行(公事方)に任じられ、幕府の領地の訴えごとや裁判を担当した。農村の争いや年貢をめぐる訴えなど、民の暮らしに直接かかわる問題を扱う中で、裁きの腕をみがいた。この経験が、のちに町奉行として江戸の町を治めるうえで生かされた。
江戸の北町奉行に任じられた。町奉行は、江戸の町の行政から警察、裁判までを受け持つ重い役で、今でいえば知事と警察の長と裁判官を兼ねたような立場だった。景元は町の人々の暮らしをよく知る奉行として、評判を集めていった。
将軍が三奉行の実際の裁判を見る行事で、12代将軍となっていた家慶から裁きぶりを大いにほめられ、奉行の手本とまでたたえられた。このお墨付きがあったため、のちに改革をめぐって老中と対立しても、景元はすぐには職を追われなかったと考えられている。
老中水野忠邦が天保の改革を始め、ぜいたくを厳しく禁じた。景元は町人だけを厳しく取りしまることに反対し、芝居小屋をなくそうとする計画にも反対して、浅草の猿若町への移転にとどめさせた。寄席をすべて廃止する案にも、芸人の暮らしや庶民の楽しみを守るために反対した。
目付の鳥居耀蔵のはかりごとにより北町奉行をやめさせられ、大目付に移された。地位は上がったが、実際には大名へ命令を伝えるだけの、仕事の少ない役だった。景元に感謝した芝居の関係者は、のちに彼をたたえる芝居を上演し、正義の奉行というイメージが広まっていった。
水野忠邦と鳥居耀蔵が失脚したあと、今度は南町奉行に任じられた。同じ人が北と南の両方の町奉行を務めるのは、とても珍しいことだった。改革で解散させられた株仲間を元にもどすことに力をつくし、寄席の制限もなくなって、町はにぎわいを取りもどした。
老中阿部正弘にも重く用いられ、罪人をゆるす決まりの編さんにもかかわったが、この年に南町奉行を辞めて隠居し、家督を息子の景纂にゆずった。頭をそって帰雲と名のり、晩年は本所の屋敷で静かに過ごした。この屋敷には、かつて長谷川平蔵が住んでいたという。
江戸で亡くなった。死後、講談や歌舞伎で、彫り物を見せて悪を裁く「遠山の金さん」の物語が形づくられ、映画やテレビの時代劇で大人気となった。ドラマのような名裁きの記録はほとんどないが、庶民の暮らしを守った有能な奉行として記憶された。
A. 江戸時代後期の旗本で、江戸の北町奉行・南町奉行をつとめました。通称は金四郎です。若いころ町で自由な暮らしを送ったと伝わり、町奉行としては天保の改革の厳しすぎる取り締まりに異をとなえ、町人の暮らしを守ろうとしました。死後、「遠山の金さん」として講談や時代劇の主人公になりました。
A. 江戸時代の人物です。1793年(寛政5年)に生まれ、1855年(安政2年)に亡くなりました。
A. 遠山景元は江戸の生まれです。
A. 遠山景元が若いころ彫り物をしていたという話は、同じ時代の記録にも見えますが、図柄が桜吹雪だったかどうかははっきりしません。お白洲で彫り物を見せて悪人をこらしめる場面は、のちの講談や時代劇でつくられたものです。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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