400石の旗本長谷川宣雄の長男として江戸に生まれた。名は宣以で、通称は平蔵。幼いころは銕三郎と呼ばれた。生まれた年は前年とする説もある(諸説あり)。のちに時代小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として広く知られる人物である。
10代将軍徳川家治にお目見えし、長谷川家の跡継ぎとして認められた。若いころは遊びに明け暮れ、「本所の銕」と呼ばれて恐れられたと記録にある。こうした町の暮らしの経験が、のちに盗賊を取り締まる仕事に生きたともいわれる。
旗本大橋親英の娘と結婚し、跡継ぎとなる長男の宣義が生まれた。父の宣雄は幕府の役職を順調に重ね、小十人頭や先手弓頭を務めていた。若き日の平蔵は父の働きを見ながら、旗本として生きる道を学んでいったと考えられる。
父の宣雄が京都町奉行に任じられ、平蔵も妻子を連れて京都へ移った。京都町奉行は京都の町の治安や裁判を担う重い役である。平蔵は京都で、町の取り締まりに当たる与力や同心たちの働きを間近に見ることになった。
父の宣雄が京都で亡くなった。平蔵は父の部下たちに「江戸で英傑と呼ばれるようになってみせる」と言って江戸に戻ったと伝わる。9月に長谷川家を継ぎ、父と同じ平蔵を名乗ったが、役職のない旗本としてしばらく過ごした。
西丸書院番の番士となり、将軍の跡継ぎが住む江戸城西の丸の警備を担った。役職のない間は父の残したお金を遊びで使い果たしたとも伝わるが、ここから役人としての道が開けた。翌年には贈り物を取り次ぐ進物番も務めた。
2年前に西丸の徒頭となったのに続き、弓組を率いる先手弓頭に任じられた。先手頭は武官の重い役で、江戸の町で火付けや盗賊を取り締まる火付盗賊改を兼ねる者もこの中から選ばれた。平蔵の出世はここで大きく前進した。
老中松平定信の人事で、冬の間だけ火付盗賊改を兼ねることになった。天明の飢饉のあとで江戸には仕事を失った人があふれ、放火や盗みが増えていた。仲間の旗本たちは、平蔵の評判が悪いとしてこの任命に不満を口にしたという。
10月、一年を通して火付盗賊改を務める本役となった。部下の与力や同心には惜しまず酒や食事をふるまい、盗賊を連れてきた町の人にもそばをごちそうしたという。庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれて人気を集めた。
関東一円を荒らし回っていた大盗賊、神道徳次郎の一味を一網打尽にし、その名を広く知られるようになった。同じ年、仕事を持たない人や刑期を終えた人を立ち直らせる施設をつくるよう定信に提案し、自ら指揮をとることになった。
江戸の石川島に人足寄場が設けられた。住む所や仕事のない人々をここに集め、大工や紙すき、炭団づくりなどの技術を身につけさせた。賃金の一部を積み立てて出所のときに渡し、生活を立て直す元手とさせる、更生を重んじた仕組みだった。
江戸の町奉行に空きが出ると平蔵の名もうわさに上ったが、前例がないことなどから選ばれなかった。それでも凶悪な盗賊団の首領を捕らえるなど働き続け、「定信様の信頼だけが心の支え」と語っていたと伝わる。
頼りにしていた定信が2年前に老中を退き、平蔵は8年近く続けた火付盗賊改を病のため辞めた。将軍徳川家斉からねぎらいの言葉と薬を贈られたが、まもなく亡くなった。定信はのちに、人足寄場の成果はすべて平蔵の功績だと記した。
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