大坂で、のちに幕府の天文方となる高橋至時の長男として生まれた。幼い名は作助。父は西洋の天文学を取り入れた暦づくりに打ちこむ学者で、弟の景佑ものちに渋川家を継いで天文方となった。星と計算に囲まれた家で育ったといえる。
天文方として江戸に招かれていた父を追って江戸に移った。父のもとで天文学や暦学、土地の測量を学ぶとともに、幕府の学問所である昌平黌で漢学もおさめた。父の弟子には伊能忠敬がおり、景保は早くから測量の世界を身近に見て育った。
父の至時が亡くなり、まだ十代のうちに父の跡を継いで幕府の天文方となった。若く経験が足りなかったため、父の友人で天文学者の間重富が後見役となり、景保は重富から天文学のさまざまな学問を教わった。星の観測や暦の仕事、書物の翻訳にたずさわった。
幕府から世界地図をつくるよう命じられた。オランダの本を集めたが、地理学やオランダ語の知識がまだ足りなかったため、長崎のオランダ通詞馬場佐十郎を江戸に呼んで協力を得た。西洋の地図や中国の書物を読み比べ、世界の姿を正確に描こうと努めた。
西洋の地図や中国の書物に加え、間宮林蔵が樺太を探検した報告を取り入れて、北方の地理を考えた『北夷考証』を書いた。地図づくりの途中でつくった試作の地図は、亜欧堂田善によって銅版で刷られ、日本で最初の銅版の地図になったとされる。
間重富らの協力を得て、世界地図「新訂万国全図」を完成させた。西洋の最新の地図に、間宮林蔵の樺太探検の成果も取り入れた、当時としては最先端の地図で、その正確さから明治の初めまで長く使われた。同じころロシアからの満州文字の国書も翻訳した。
幕府が西洋の本を翻訳するために設けた蛮書和解御用の責任者となり、オランダ語に訳されたフランスの百科事典を日本語に訳す仕事を始めた。大槻玄沢や馬場佐十郎ら蘭学者が集まったこの役所は、のちに幕府の洋学研究の中心へと発展していった。
幕府の書物奉行となり、天文方の筆頭も兼ねて、幕府の書庫の管理も受け持つようになった。満州語の研究も進め、いくつもの本を書いた。またロシアで出版された日本の記録の誤りを正そうと、関係する文書をオランダ語に訳して出版する計画も進めていた。
天文方として伊能忠敬の全国測量を監督し、助けてきた。忠敬が亡くなったあとは、その死を伏せたまま弟子たちとともに作業を続け、日本全国の海岸線を正確に描いた『大日本沿海輿地全図』を完成させて幕府に納めた。父と忠敬の志を受け継いだ仕事だった。
オランダ商館長の江戸参府に同行してきたドイツ人医師シーボルトと会い、交流を深めた。景保は西洋の新しい地理の本や地図をほしがり、そのお礼として、国外に出すことが禁じられていた日本の地図などをシーボルトにわたしたとされる。
帰国しようとしたシーボルトの荷物から、持ち出しを禁じられた日本地図などが見つかり、シーボルト事件が起こった。地図をわたしたのが景保であることが明らかになり、景保は捕らえられて牢に入れられた。多くの関係者も取り調べを受けた。
取り調べが続く中、牢の中で病に倒れ、四十代の半ばで生涯を終えた。死後もあらためて罪を言いわたされ、厳しい処分を受けた。世界地図や伊能図の完成など大きな業績を残した学者の、悲しい最期だった。墓は上野の寺にあり、父至時と伊能忠敬の墓と並んでいる。
間宮林蔵頼山陽広瀬淡窓会沢正志斎二宮尊徳大塩平八郎渡辺崋山遠山景元
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。